
夏休みは、雲出川が遊び場だった
私は小さい頃からずっと、この石橋の集落に住んでいます。小学校の頃はプールがなかったから、この集落の子は夏休みになるとみんなで雲出川へ行きました。父兄が1人か2人、監視のためについてきてね。川で泳いでよく遊んだもんです。
その頃は、川に鮎がいっぱいおってね。鮎釣りに来ている大人が沢山いたから、死んだ鮎が川のそばの石垣に捨ててあることもよくあって。それを拾って、川の中でもむと、鮎の匂いにつられて、石垣の穴からウナギがいっぱい顔を出すんです。ウナギは鮎が好きだからね。その光景は今でもよく覚えてます。
それから、川で泳いで遊んでると、のども渇くしお腹も空くでしょ。そしたら、近所の畑からスイカやウリを取ってきて、川の中で冷やして、みんなで割ってかぶりつきました。よその家のを勝手に(笑)。そういうことが許されていた時代でした。

今の雲出川は、ダムができてから水の力がなくなって、ヘドロが溜まりやすくなってしまったけど、私が小さい頃の雲出川は、ほんまにきれいな川でした。私が通っていた、今はもう廃校になった大井小学校の前にも川が流れていて、校歌に「清く流れる雲出川」という歌詞があったくらいです。


かくれがと、昔のこども社会
そのころは『農繁休業』といって、百姓の手伝いをするために、学校が休みになる時期があったんです。夏休みとは別で、9月ごろにね。手伝いももちろんしたけど、そこまで人手がいらん時もあって。そういう時は「暗くなるまで遊んでこい」とよく親に言われたもんです。みんなで山に行って、小さな家を作って、遊んだりしました。“かくれが”と呼んでいたけど、まあ、秘密基地みたいなものやね。葉っぱをようけ集めて、竹や木の枝も寄せて、ぐるっと囲うだけの簡単なものやったけど、作るのが楽しくて。
そのころの集落の子どもは、同じ学年だけでも5、6人はおったから、結構な人数やった。そやから、上下関係がきびしくて、上の先輩の言うことは絶対やった。「枝持ってこい」とか「あそこのミカンとってこい」とか言われたら、ばっと走って取りに行くんです。言うこと聞かんと、“かくれが”に入れてもらえへんからね。土曜日の一斉下校の時は、下っ端のもんはカバン持たされたりもしたよ。

零時に始まる『山の神』
この集落には『山の神』という行事があってね。年が明けてから1月7日までの間は山に入ったらあかんけど、1月7日の零時になったら、「もう山に入って仕事してもいいですよ」というひとつの区切り。山の入口をしめ縄を付けた木の棒で閉めて、1月7日になったら、入口を開けて、しめ縄を焼くために火を焚く。そこへみんなが餅を持ってきて、おのおのが焼いて食べる。その餅を食べたら、1年風邪をひかない、という験担ぎみたいなものやね。
子どものころは、それが楽しみだった。仲の良い友達と「何時に行く?」とか「開けたらすぐ行こか」とか約束して、零時きっかりに行ったりした。遅れて行くと、早く来とった子に「朝寝こき!」言うて笑われるんです。いたずら好きな子は、わざわざ新婚さんの家を狙って、缶詰の缶に石ころを入れて、屋根の上に放り上げたりもしてた。からからーっと音をさせて、「起きろー!」いう意味やね。
その日は、一晩中起きて、特別な夜だったよ。今は、零時には始まらなくて、朝6時くらいから火を焚いてる。子どもの人数も少なくなってしまって、少し形は変わっているけど、ずっと続いている行事です。


川のそばで時を重ねて
鮎釣りを始めたのは、25歳くらいの頃です。親戚に誘われてね。でも、専門学校を出てからはずっと父のあとを継いで建築業をしていて、若い頃は月に2日しか休みがない時代やった。そやから、今ほど行く暇がなかった。60歳になって、建築業は息子に任せて引退してから、ようやく本格的に鮎釣りを始めたんです。それでも、気が付けばもう50年以上鮎釣りを続けています。
振り返ってみると、ほんとの最初のきっかけは、やっぱり小さい頃に雲出川で遊んだことやと思う。日本中いろんな川に行ったけど、やっぱり紀伊半島の川が一番きれいやと思う。思いきって、鮎釣りのために、熊野市に別荘も建てた。熊野からだと、三重県や和歌山県のいろんな川や海釣りにも行けるからね。


鮎のシーズン中は、半分以上家におらん。そのくらい川へ行っています。これからも長生きして、85歳までは鮎釣りを続けたい。一つの体では足りないくらい、行きたい川がまだまだある。鮎釣りを知らんまま死んでいく人は、かわいそうやと思うくらい。
中国の格言で「一生幸せになりたければ、釣りを覚えなさい」いうのがあるけど、ほんまにその通りやと思うよ。 釣りをしている時は、釣れなくても良いの。川のそばで腰下ろしているだけで、それだけでええんやから。


株式会社ライフ・テクノサービス採用担当。男の子二人のワーママ。
お家でのんびり過ごすのが好き。



