名物は、昔ながらのやさしい味わいの中華そば

昔ながらの中華そばが人気ですんさ。息子らといろいろと味を研究してちょっとずつ変わってきてはおるんですけど、基本は創業当時の昔ながらの中華そばです。
店はおやじと私と息子、三代続いてます。朝は7時頃に店に出てきて、家内が仕込みの準備をして、わたしは麺を作って、息子が仕込みの仕上げ。息子の嫁さんが出汁を引いています。それぞれに役割分担があってね。

達筆で書かれたメニューは、元スタッフが今も書いてくれるという。


創業は昭和24年。この店ができて暮らすまでは、昔、江戸橋に部田駅という駅があって、その近くに小学校入る前まで住んでました。小さいころは、店を手伝うっちゅうのはなかったですね。

津観音

子どものころは、ここらへんは割りに女の子が多かったから、ゴム跳びとか缶蹴りとか、店の前の通りで遊んでましたね。観音さん(大門にある日本三大観音の一つ津観音・恵日山観音寺大宝院)は、みんなの遊び場でした。

津にたくさんある大森屋とは?

今はないですが、大森屋本店が元祖です。そこの兄弟が暖簾分けして大森屋がたくさんできました。この店は一番下の妹のおふくろが本店から暖簾分けをしました。八町の大森屋さんは違うくて、本店の一番番頭さんが始めました。江戸橋に八百音っていう店があります。それは私のおふくろの姉さんが暖簾分けした店です。
上浜町にもあって、大森屋支店といいました。オーミケンシ(昭和の津の経済を支えた大きな紡績工場)があったので一時はものすごく流行りましたよ。オーミケンシで働く女の人が多かったもんで、ちょっと出かけて遊びにいった帰りに店に寄って、食べていくという感じでした。

発祥は戦後の平屋のバラック

昔ここは、大門商店街の12人の組合員で作った長屋でしたんさ。この辺は空襲のせいで焼け野原で、元々は醤油屋さんがあって、醤油の味噌蔵がずらっとありまた。それが焼夷弾で焼けて原っぱになったところを、おやじらの代の12人が長屋を二棟作った。長屋だから屋根もひとつで、壁もひとつ。隣りは和院っていう大門で有名だった会員制クラブの前身のスナックでしたよ。

高度経済成長期、店の前の通り

私が29歳の時に長屋が火事になったので、3階建てを建てたんですわ。その後、3年くらいしてからトイレットペーパーを買い占める時期がありましたでしょ。オイルショックのとき。その当時の前後ぐらいが一番忙しかったですね。店の前の通りなんか、土曜日の夜になると、人を掻き分けて進まないことには通れないくらい賑わっていました。みんなスナックや飲み屋に行ってましたね。この辺も和院さんを筆頭にいっぱいスナックがありました。
今は夜なんか真っ暗。ひとっこひとり通らんくらいで。昔は大門アーケードがあったんですが、女の人がひとりで歩くとハイヒールの音がアーケードに響きますやんか。本人がその音が「こわい」って言って「歩きたくない」というくらい人がいない。えらいかわりようですに。

常連に愛される、昔ながらの食堂

店は常連さんが8割くらいです。感謝してますんさ。この通り自体を知らない人が、いっぱいおりますやんか。

大将と女将さん

「あれ!?大森屋さんって、ここにもあるやんか」っていうような感じで、今の人は通っていきますんさ。

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