三重県のバー文化を育てた50年間

9月で、Pige(ピゲ)作って50年目に入るんですよ。昭和48年の9月8日にPigeを作って、この9月で50年目に入ったんだけど、ウチは周年(イベント)はしないんで、もう普通の通りやってますけどね。

僕はオイルショックの頃に店を出したんですけど、こういう店、バーっちゅうのは少なくて。結構いいお客さんが付いてくれて、楽しい商売させていただきました。

その頃、この辺りのバーは「吉田」と「渚」と、その後に僕やったっちゅう感じで。「吉田」さんは大門で、「渚」さんは松菱の近くらへんにあったんです。今は両方ともないですけどね。「吉田」さんにはよくバーテンダーの仕事も教えていただいたりしました。

僕はバーテンダー協会に誘われて入って、半世紀以上も協会活動をしました。三重県の支部長の役を受けた時はね、30名ぐらいしか三重県に(バーテンダーが)いなかったんですけど、それを98名まで増やしましたわね。

同じこの通りの入り口に「ビッグベン」っていう店があるんですけど、そこで週に1回、「午前中は(店に)おるから、いつでも電話なしで来てくれ」「一緒に勉強会しよう」っちゅう感じで、頑張ってやってたんですけどね。

そういうことやって、ほんで今、50年くらい経ちますけど、ウチから育っていった子は10名ぐらいおります。今、店出してる子は7名おりますわ。

コック見習いからバーテンダーになるまで

僕はもともと最初に名古屋で修行している時に、コックの見習いをしてたんですよ。住み込みでラクだし、自分で独立したいっちゅうことで。まだその頃はバーっちゅうことは思ってなかったんですけど、「コック(で独立する)には厨房器具とかこんだけの資産がいるんや」って、だいたい分かってくるじゃないですか。

で、フッと「寿司も良いなぁ……」ちゅう感じで。お寿司屋さんは狭いところでできるじゃないですか、下手すりゃ1人でもできるし。それで、名古屋の御園通(みそのどおり)にある東鮨(あずまずし)本店へ修行に入って。桜通の日銀とか御園座なんかもよく配達に行きましたよ。

そこで本当に大事にしてくれた先輩が「俺、店変わるから」と言うんで、「一緒に連れてってください」言うて店を辞めました。今池に住み込みできる「琥珀」っていうバーがあったんですね。そこのオーナーがやってた「山田屋旅館」が下宿先みたいになってて、東区代官町のそこから今池まで通ってました。

昼間に「山田屋旅館」の喫茶店を手伝って、夜は今池でバーをやってました。その頃は給料安くてね、1ヶ月1万もなかったんですよ。当時、喫茶店のコーヒーが50円、夜泣きそばが50円。そんな感じでしたね。

それから23、4の時に津に帰ってきて、自分で店出すためにあちこち働いたんですけど。女の子の多い店ですけどね(笑)。最初、センターパレスの近くの「ボン」で修行して。それとNTTの近くに「コンパル」ってあったんですよ。そこの奥さんがクラブするからっちゅうことで「ボン」から引き抜かれて、「クラブ コンパル」に入って。で、そっからまた「和院」に引き抜かれて。昔は女の子が多いバーやったんですよね。そこのマネージャーが辞めるから「代わりに来てくれ」っちゅうことで、そこでマネージャーの仕事をしてから、独立しましたね。

現在の和院。一度閉店したあと、当時の流れを継いで新しいオーナーが立ち上げた。

26の時に独立した最初は喫茶店だったんですよ。中勢バイパスの中河原で、車そのまま乗って洗車するところのオーナーさんが喫茶店をやってくれっちゅうことで、最初の商売が「喫茶ロイヤル」。

そこでコーヒーが売れなくて。もうね、みんなそのままスーッて行ってまうから「コレはいかんわ」っちゅうことで、1日50食限定で弁当を始めて。それも200円ですよ。自分で配達と回収に行って、「コレは大変や」っちゅうことで、大門に戻ってバーを出したわけなんやけどね。コーヒー2杯飲む人は少ないけど、お酒だと何杯も飲まれるし。

300軒近くのお店で賑わっていた大門

最初は、「茂波」さんの敷地のところにテナントが3つあって、その中の1つを私が借りて。そこでやったのが「Pige」。そこで30年ぐらいやってましたかね。バブルが弾ける前にはグレイスビルでも店やってましたし、全部で3軒やりましたね。

その頃は大門が1番お酒飲むところが多くてね。津駅にはそういうのがあんまりなかったんですよ。津駅には10軒くらいしかなかったのかなぁ。この辺は、居酒屋とスナックとかそういうのを入れると、300軒近くあったんじゃないかな。

芸姑さんもみえたし、居酒屋さんとか大きい料亭はあるし、寿司屋さんも麺類もあったなぁ。乙部の方には、「待合」いうて芸姑さんとお客さんとがちょっとそこで一杯飲んだりとかそういう感じのお店もあった。芸姑さんはもう解散しましたけど、その頃は(芸姑さんが)200人以上、置屋さんは30くらいありましたね。

バブルが弾けて「これはダメだ」っていうことで、他の店は譲って、「Pige」だけにしたわけです。

最初、ここはブティックやったんですよ。天井も電球もそのままです。アール(曲線)もそのままで、壁に魚の絵が描いてあったんです。最初にここを改装して店を作ってくれた人が、「こういう感じの店でええか」って言うて絵を描いてきてくれて。「そのとおりに作ってくれ」っていう感じで。

店舗改装当初のイメージ画
イメージ画のイラストに合わせて「航海」のイメージで揃えられたインテリア

その絵を見て「えぇなあ、コレ」っていうことで、そこに描いてあるような魚(のディスプレイ)が欲しくて、ママと2人でカナダに買いに行きました。このサケとマスの剥製は、本物の魚の剥製なんですよ。今は茶色くなってるけど、元はこんな色じゃなくて、もっときれいな青っぽい感じ。あそこのハンドルは、大垣の大きな骨董屋さんで買った。

昔から親しまれているフードメニュー

食べ物のメニューが多いのは昔からです。

(芸姑さんの)座敷が終わると、お客さんと一緒にうちへ来てくれるわけですよ。芸姑さんは座敷でお酒は頂くけど料理はそんなに食べられないから、喜ばれましたね。うちは料理が多いから、そういう感じでお客さんと食事してもらったりとか。

今も、お酒だけじゃなく食べ物も食べてかれるお客さんは多いですね。それと、スナックさんからテイクアウト。「ウチは配達しません、取りにきて!」ってね。パスタとかは伸びちゃうから、ピザとか肉巻きとか天巻きとかを取りにこられますね。

今は我慢、我慢で頑張らないかんけど、大門でも新しい店ができてきたりしますよね。美里の人とか外国の人が店やったりとか、僕も情報は聞いてるんですけど。後は、若い人にやってもらわないかんねぇ。
この店を作った時は27、8だけど、私78やし、やっぱりまだまだ長くやりたい。もう「ゆっくりやろうよ」っていう感じでね、無理せんと。

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