自分の住むまち、生まれたまちのことって、案外知らないもの。まちのあちこちに歴史を記す石碑があったり、偉人の功績を称える記念館はあるものの、当たり前すぎて気に留めていなかったり。でもよくよく見えていないだけで、三重という土地にはたくさんの魅力あふれる物語が詰まっているのではないでしょうか。

そこで、三重県のまちのことをよく知る方たちに、教科書や資料では見えてこないリアルなまちの出来事をお聞きし、さまざまな角度から三重の魅力を探して行きます。何の変哲もなく見える、私たちのまち。でも深く深く掘り下げていくと、そこには思わず驚くような事実が見えてくるに違いありません。

大門の歴史を見守り続けてきた「観音さん」

三重県津市。「津」の地名は港という意味を指します。室町時代には、薩摩の坊津、筑前の花旭塔(はかた)津(現在の博多)とともに日本三津の一つとされるほど、大きな港町として栄えた場所でした。しかし室町後期の大地震により港は破壊されてしまいます。人々は、安全を期して高台になっている現在の大門商店街のある場所に、再び繁華街をつくったのです。

戦国時代には、織田信長の弟・信包(のぶかね)により津城が築城され、城下町として栄え、その後藤堂家に受け継がれたあと、さらに津のまちは発展しました。しかし、なぜ津のまちはこんなにも栄えたのでしょうか。

築城の名手・藤堂高虎が整備し、津のまち自体が一つの要塞となっていた。

室町時代からこの地にあり続け、まちの歴史を見守ってきた津観音(正式名称:恵日山観音寺大宝院)の第28代住職・岩鶴密伝(いわつるみつでん)さんにその理由を尋ねてみました。

「江戸時代に伊勢神宮へお参りする『お伊勢参り』が大流行しました。津観音には、『国府 阿弥陀三尊』という阿弥陀さまが祀られていますが、これが仏となった天照大神(アマテラスオオカミ)だとされており、伊勢神宮とセットでお参りに来る方が多かったんです」

なんと「津に詣らねば片参り」と言われ、ご利益が半減するとも思われていたとか。「一生に一度はお伊勢さん」と言われるほど、多くの人が憧れを抱くお蔭参りでしたが、労力もお金もかさむため、参拝したくても叶わない人も多くいました。そのため、津観音では江戸のまちへ阿弥陀さまをお連れし、ご開帳をしたという記録も残っているそうです。当時の人の信仰心の強さ、そして津観音の存在がとても大きなものであったことが窺い知れます。

江戸時代に発行された旅行記には、節分に行われる「鬼押さえ」行事の様子が描かれている。

浅草観音、大須観音と並んで日本三観音の一つとされ、江戸時代には、現在の4倍もの広さの境内があった津観音。中には7つの塔頭が立ち並び、多くの僧侶がこの場所で生活していました。

境内の外から現在の岩田橋のあたりまで門前町として栄え、呉服屋、お茶屋、遊郭、料亭などが立ち並び、まるでアミューズメントパーク。この賑わいは、戦争が始まる昭和初期まで続きました。

しかし明治の始め、神社から仏教的な要素を排除しようとした「神仏分離令」が発令され、津観音も数多くあった塔頭を廃寺とせざるを得ませんでした。さらに1945年には津のまちは空襲を受け、火の海となりました。多数の寺宝(国宝含む)や塔頭7ヶ寺を含む41棟の大伽藍が一夜にして全焼。僧侶たちは、仏像を抱いて必死で逃げたそうです。

現在も本堂の前に鎮座する銅造の阿弥陀如来立像は、戦火の中でも焼け残ったもの。戦争の辛さや苦しさを、私たちに伝えてくれる貴重な存在です。津観音とともに栄え、歴史を育んできた大門のまち。「戦前のお寺は、地域のさまざまな機能を担っていたんですよ」と岩鶴さん。

「勉強をするための寺子屋であったり、戸籍管理をしたり、まちの揉め事を解決するために集会を開いたり。今で言う、行政機関のような役割を担っていました。ですからお寺は、地域の人のためのもの。その意識は今も変わることはありません」

賑やかだった頃の記憶をもう一度。そのために再び、お寺が今一度地域のハブ(拠点)となることもできるのではないだろうか。

「例えばお寺でライブをしたり、ファッションショーをしたり。伝統や歴史を守りながらも、文化、カルチャーを生み出す場として活用されるようになったらうれしいなと思っています。この時代にあったお寺の在り方を、これからまちの皆さんといっしょに考えていきたいですね」

津の商いの歴史に触れる「大門商店街」

続いてお話を伺ったのは、シモオカ陶苑の下岡明生さん。およそ250年もの間、大門で商売を続けている家系なのだそう。そして下岡さんは、昭和一桁生まれの92歳。大門の全盛期をこの目で見つめてきたお一人です。

「陶器屋の前は米屋や薬屋をやっとったそうですわ。小さな頃に蔵を探検すると、薬たんすなどの昔の商売に使っていたものがしまってありましたね。聞いたところによると、人にこの場所を貸しとった時もあって、その人が陶器屋をやっとったらしんですわ。それが商売が立ち行かなくなって夜逃げしてしまったもんで、その残ったものをどないかせないかんってことで、陶器屋を始めることになったらしいんです」

そんな成り行きから始まった、シモオカ陶苑。当時は陶器であらゆるものが作られており、土管やコンロなどの建材や、すり鉢などの生活必需品なども扱っていました。陶器は主に愛知県の瀬戸や常滑で作られ、海を渡って津まで運ばれてきました。岩田川の船着場で荷を降ろし、大八車に乗せて大門まで運ぶ。それは戦後、車が普及するまで続きました。

昭和の始まりの頃は、江戸・明治と変わらず、人々が集まる繁華街として栄えていた大門。商店街にはネオンが光り、4階建てのデパート「大門百貨店」も建設されました。当時としては県内で一番大きく、エレベーターを備えた最新の建物でした。

「屋上には子供用の遊園地があって、そこで遊ぶのが楽しかったですね。エレベーターにのった記憶もありますよ」と下岡さん。しかし、楽しい時間もそう長くは続きませんでした。下岡さんが12歳の頃から、どんどんと戦争が激しさを増し、空襲警報が鳴り響く日々を過ごさなければなりませんでした。

「跡取りとして商業の学校へ通う予定でしたが、戦時中やもんで、商業は廃校になって工業に行くしかなかったんです。戦争で大体18から30歳ぐらいの人はほとんど兵隊に行って死んでますわさ。私も2年先やったら、もう行かんならん。そんな時代でした。戦争が終わってまちが丸焼けになって、商売しようにも何もない。途方にくれてましたけど、常滑や瀬戸はあんまり焼けてなかったから、協力してくれて。それで平生往生(へいぜいおうじょう)やなと思ってね」

戦前の大門の様子。お祭りになると人が行き交うのもやっとなほど大賑わいだった。

戦後は進駐軍の拠点が、旧三重県会議事堂(現在:県民サービスセンター)に開設されました。

「ジープに乗って、ようアメリカの方が来るようになったんですわ。うちは陶器屋ですから、奥さんや娘さんにプレゼントするためにカップやお皿を買おうと思って寄ったんでしょうね。『NORITAKE』なんかは世界的にも有名ですから。けど、価格も漢字で書いてるから、外国人さんは読めへん。こんなことしてたら商売にならんなと思って、護国神社の端で毎日新聞がやってた『カムカムエヴリバディ』っていう英語の教室へ習いに行ったんですよ」

呉服屋やおもちゃ屋さんが立ち並ぶ大門商店街。
上記の写真に写るオーデンビルは、現在もその姿を残している。

戦禍を免れた大門百貨店では、アメリカの映画が見られるようになった。下岡さんは英語の勉強も兼ねて、足繁く通っていたそうです。

「英語が少しわかるようになって、外国人さんでも見やすいように値札を変えました。うちだけやなし、洋装店やお菓子屋でも、みんなそうでしたね。しかし、戦争が終わってからは、都市開発が起こって、うまいこといった人とえらい目におおた人と道が別れたように思います。今も残ってるのは、うちとこと貴金属の甲子堂さん、岩田楽器さん、あと乾物屋さんもやな」

戦後は、大門をより良い商店街にするため、下岡さんは奔走します。全国の商店街を見て周り、アーケードの設置を推進。雨が降っても快適に買い物ができる商店街として、かつてのにぎわいを取り戻しました。

「やっぱり観音さんがあって、快適に買い物ができるアーケードがあって、そりゃあいいねって。雨でも祭りができるし、商品が日焼けしない。だからアーケードを外すってなったときはショックでしたよ」

「なにせ、今は人が通らんしね」。そう呟き、少し寂しそうな表情を浮かべていました。生まれてからずっと大門商店街を見続けていた下岡さん。その言葉の中から、大門の歴史、カルチャー、そしてその時代の人々の様子をありありと感じることができました。

大門に足を運んだ際はすこし、想像力を働かせてまちを見つめてみてください。津の港にはいくつもの船が入港し、岩田川をつたって物資が運ばれる様子を。かつて、多くの店が立ち並び、多くの人が行き交う大門のまちを。そこに暮らしていた人たちの生活を。

当時のようなにぎわいからは遠ざかってしまいましたが、少しづつ、写真スタジオや花屋など、今ある建物の姿を活かしたお店も増えてきています。ほんの少し見方を変えて見れば、あなたの住むまちはどんどん面白くなる。そうやって関わりを持つ人が増えれば、いつの日か再び、商店街ににぎわいが戻る日がくるのかもしれません。

岩田川に架かる観音橋から眺める津のまち。

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