本と三味線と少女時代

私は2人姉弟の姉として、東京で生まれたんです。そして、2歳の時に津市広明町に来ました。叔母が三味線や舞踊、小唄を教えていたのもあって、学校が終わってから習いに行ってたのを覚えています。高校までセントヨゼフ女子学園に通っていて、その後に大阪の短大行って。

小さい頃から本を読むのが好きだったんです。『風と共に去りぬ』が本当に大好きでしたね。あとは映画を見るのも好きで、『赤毛のアン』が大好きだったの。だから今赤毛のアンを原作にした『アン・シャーリー』っていうアニメがやってるんだけど、それも見てるくらい。『アン・シャーリー』はアンが大人になるまでも描いてて、それが良いのよね。

静かな駅前に咲いた料亭の灯

この料亭ヤマニは、昭和24年にできたんです。私の祖父母がヤマニ産業という会社を興して、祖母が料亭、祖父が建設の方をして。昔は料理屋っていうと、津駅周辺でうちだけだったんです。

昔の津駅前は今みたいに繁華街じゃなかったから、寂しかったな。その頃は乙部・大門がもう全盛期だったから、「なんでこんな津駅の寂しいところに店したんや」みたいに祖父母たちは言われたらしいんです。でもだんだんお客さんが来てくれるようになって、そして昭和57年に再開発してから賑わいだしましたね、料亭含め津駅周辺が。

現在の津駅周辺

私は結婚してから、祖父母が開業した料亭ヤマニの女将になって、3代目なんです。亡くなった主人とは、短大時代に大阪で出会って、三重に連れて帰ってきたんです。主人が婿入りしてくれた感じですね。そこから、主人も料亭を手伝ってくれて、よく頑張ってくれたと思います。

今思えば、この料亭もコロナの時が本当に一番大変でしたね。周りの大きい料亭も結構閉めたところが多いんですが、昔から来てくれる方もいらっしゃいますし、なんとか続けられている状態ですね。

料亭ヤマニの内装

おばの背中に導かれて、小唄の世界へ

昔の大門には料理屋さんもたくさんあったり、乙部には芸者さんが80人くらいいたりしたんです。その芸者さんを教えに小唄を教えている人が来たり。というのも、昭和30年代ぐらいは、小唄がたいへん盛んな時期だったんです。その頃はカラオケとかはないし、芸者さんや政治家さん、そういう人たちもみんなやってました。

小唄を始めたきっかけは、私の叔母が、藤間流の踊りと小唄の師匠をしてたんです。最初は「やれやれ」って言うから小学校のころに始めたんだけど、楽しかったから続けてこれてるんでしょうね。

あとは、叔母の家には子供用の三味線があったんで、5つ6つぐらいのころから教えられました。舞踊は途中で辞めてしまったんですけどね。小唄に関しては、亡くなった叔母の2代目家元としての名前「土筆 栄」を継いで、今も3代目として活動しています。

小唄の披露の様子
家元を襲名した時の写真

小唄が人生のまんなかに

今は3人の娘たちが料亭のことは大体やってくれているので、小唄と三味線が人生のメインみたいな感じですね(笑) 弟子も今は25人くらいいて、マンツーマンで稽古しています。

教えている人の中でも、上が90歳くらい、下が26歳くらいだから、幅広い年齢の人が一緒にできるっていうところが私は魅力だと思うんですよ。しまいにはそれが生きがいになって、最期までやってる人が多い気がしますね。

今は、弟子の中から、小唄を人に教えられる人が出てきたらいいなって思ってます。

タグ