団地の友達と外遊びをした幼少時代

四日市の塩浜から海の方へ行った石原町で生まれました。通ってた塩浜小学校はけっこうマンモス校でしたもんで、大きな団地の友達と外で遊ぶことが多かったです。ビー玉やら牛乳のフタを集めてそれを取り合いするとか、かくれんぼとか、そういった遊びですね。

塩浜小学校周辺の風景

あとは川で魚を捕ったり、洞窟を掘って遊んだり。ちょっとした丘みたいなところがありますもんで、そういうところに人が1人入れるくらいの大きさの穴を掘ってね。4、5人で作って、2時間くらいかかったんちゃいますか。かまくらみたいな感じですね。

そこに生き埋めになったこともあります(笑)。私1人が穴の中で作業しとったんですけど、土が崩れてしまって。生き埋めになって、外の声も聞こえなかったんです。「あぁ、このままもう助からないかな……」と思いましたが、土がドサっとなったのが見えたみたいで友達らに助けてもらいました。

「サラリーマンにはなりたくない」

父親が四日市にある工場で働いてましたんですけども、公害で喘息になりました。サラリーマンをしてて公害にあったもんで、「できたらサラリーマンだけはなりたくないな」という意識でいてました。サラリーマンっていうのは、やっぱり会社の言いなりみたいな感じやなと。

私が行ってた海星高校は、当時、7割ぐらいが大学へ行ってましたんやわ。だけど、私は頭良くなかったもんで「大学行っても仕方ないな、何かしようかな」と思ってたら、跡取りとして魚屋を継ぐ友達がおりまして。その子といろいろ話しとる中で「これからは手に職をつけた方が良ぇぞ」「やっぱり食べ物商売が良い」と言われまして、その友達のお父さんから修行先を紹介してもらって、四日市の「やっこ寿司」に入りました。

5年間は「やっこ寿司」におって、だいたい寿司が握れるようになりました。そのあと津の南中央の「笹寿司」に移りまして、そこにも5年くらいおりました。こちらに移ったのはなぜかというと、昔は中学校に上がって修行に出る人が多かったんですけど、みなさん高校・大学に行くようになったもんで、私らの下が入ってこなかったんですよ。だから、自分が全部下っ端の仕事をしている。「このまま何年これが続くんだろう」っていうので、これだったら違う店に行って板前としていこうかなっていうのがきっかけで、津の方に来たんですね。

今の店を始めるまでの間、別の仕事をした時期もあるんです。いったん寿司屋を辞めたのは、ずっと土曜日、日曜日、祭日、それから盆休み、正月休みがなかったから。友達はみんなそういう休みが多かったので、「ちょっといっぺん、日曜日とか正月とか休みたいな」という気持ちになりました。

寿司屋じゃなかった期間は約10年ぐらい。でも、「いずれはまた寿司屋をやりたいな」というのはありました。

安さが「山寿し」のこだわり

最初、寿司屋をするならお持ち帰りをしたかったんですよ。その当時、私は一般の寿司の値段っちゅうのが高く感じたもんで、ちょっとでも安く提供するにはテイクアウトがいいかな、と。ただただ漠然と、そういう感じで寿司を食べてもらう人が増えたらいいかなっていう、それだけですけど。今もその名残がありますもんで、安く提供させてもらってます。

最初はテイクアウトですので、メニューは寿司の盛り合わせとかそういったものだけだったんです。それがね、徐々に増えていきました。知り合いもよく店に来てたんですけど、「ここで食べられやんかな」って言われてイスを置いて、そしたらまた他のお客さんが来て「食べるとこ、ここしかないんか」っていうことになって、座席を増やしたという感じ。それで店で食べる人が増えてきて、今度は「食べるだけやなしにアルコールも飲めやんかなぁ」って言われて、カウンターを作って。

ちょうどその時、今から22、23年くらい前と違いますやろか? 回転寿司とかスーパーの寿司とかそういうのが増えてきまして、お持ち帰りが少なくなってきましたね。店で食べてもらうのに力を入れようかなって思って変えてきました。

ここ始めて、今34年目に入るんですけど、いつ辞めようかっていうのは難しいところです。娘に「孫が『おじいちゃん寿司屋やってたよ』っていうのを覚えられる年になるまではやってください」って言われてますので、それまで頑張ろうかなと思っております。

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