名張藤堂家と名張の子どもたち

名張藤堂家って知ってる?江戸時代の名張代々の殿様の一家。津藩の藤堂家の支流で藤堂高吉にはじまる。

今も「名張藤堂邸跡」っていう屋敷跡があるんです。そこを見に行っても、天守閣とかがないから「こんなもんかぁ」って言うぐらいのもんかもしれやんけど、昔はもっと広かった。殿さんの土地やった場所を利用して、今の名張小学校、名張中学校をつくったんやな。

僕の小学校の同級生に、名張藤堂家の娘がいて。小学校2年生のときに彼女は東京に転居して行ったけども、今思うと、彼女はその屋敷に住んでたんかな。

その藤堂家屋敷の裏に「寿栄(ひさか)神社」っていう殿さんを祀ってるお宮がある。小学校の子どもたちが習うときは「じゅえいじんじゃ」ってそのまま呼ぶこともある。地元の子どもは「ひさかさん」ってよお言わんから「ししゃかさん」って言うてね。

町も川もにぎやかだった「バナナが30円」のころ

僕が住んでいる名張市榊町は、宇流冨志禰(うるふしね)神社の一の鳥居からすぐのところ。お小遣いがよくて10円、バナナが1本30円だったころの話やけど、榊町は旧町(歴史的な街並みが残る初瀬街道沿いを中心とする旧市街地)の中でもにぎやかな商店街で、うちの前は八百屋、左斜め前は表具(ひょうぐ)屋。その向こうが魚屋で、歯医者があって、呉服屋があった。お隣も呉服屋。旧町で一番小さな町に、呉服屋も魚屋も床屋も2軒あった。大晦日、表具屋は職人の仕事やからしてなかったけど、八百屋は除夜の鐘が鳴っても営業してて、おばちゃんとおじちゃんが順番に店番やって白熱灯がこうこうとしてた。
※職人が襖や障子などに布や紙を貼る店

宇流冨志禰(うるふしね)神社の一の鳥居

今の榊町通り

榊町の裏に、「城下町の川」っていう意味で「城下川(じょうげがわ)」って呼ばれてる地面を掘って作られた水路があって、町の人たちと日常の水として付き合いしてるから、「水路」から「川」に昇格してるんだよな。

飲み水は井戸からやけど、お風呂の水をこの川から汲んでたり、おふくろは鍋を洗ったりしてた。そして、子どものころ、ここで魚をよく捕ってた。子どもが捕るのは難しいけど鮎が流れてきたりウナギもたまにおったり、ナマズはけっこう見たな。上下水道であり、いざというときには防火用水にもなる総合用水・環境用水です。

「花筏」と川を見つめて

ハナショウブを乗せた筏を城下川へ浮かべる「花筏(はないかだ)」の取り組みは、僕を子分のようにして遊んでくれた旦那と、その奥さんから始まった。

高度経済成長期って環境を無視した時代があって、そのころは、お風呂で使った水も白菜のヘタみたいな生活の生ごみも城下川へ平気で捨ててしまっていた。川はもう汚れて汚れて、川底が見えへんところがあるくらい。川と上手な付き合い方をしてかなあかんってなった時、その夫婦が「菖蒲をこの川に浮かべたらどうや」って言ったのが始まり。川に浮かべたら菖蒲だけは見れへん。川そのもの全体が目に入って「あれ、汚いなぁ。ちょっと、なんとかせなあかんやないか」と気づくための仕組みです。

花筏を浮かべるのは2週間。でも、この花は有志で1年かけて育てて、株分けして繋げていっている。2週間の舞台のために365日育ててるんです。最初は「川の会・名張」の10人ほどでやってたのを、声をかけた他の市民団体とか、花筏の取材に来た新聞記者も手伝いに来てくれるようになった。あと、市の職員も。市から「行ってこい」って言われてちゃうで。取り組みがスタートしたころ学生だった子が市役所に勤めるようになって、何人かで来てくれるようになった。

ゴールデンウィークやお盆にあわせて地元の小学生が作った竹行灯が並ぶ

手伝いに来なくても、川を使っている人が川を見てハッと思ってくださった。川に流すものを考えよう、きれいにしようって思ってもらえた。だから、今では魚も戻ってきて、蛍も見られる。そこに住んでいる人が、風景を作っていくんだと思いますね。

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