獅子舞とともに育った島ケ原の子ども

僕はずっと、生まれも育ちも島ヶ原(三重県阿山郡島ヶ原村)でね。平成16年に、6つの市町村が合併して「伊賀市」になったんですよ。

島ヶ原では、毎年12月20日に「日本で1番遅い秋祭り」と言われるお祭りがあるんです。昔から水田農業を行っているので、稲の取り入れ(収穫)が遅い。11月に取り入れが始まって、それが終わってからお祭り。祭りは、鸕宮(うのみや)神社で、獅子舞をするんです。300年ほど続いていて、今は市の無形文化財にもなっています。

秋祭りの様子(山菅さん提供)

秋祭りの1か月前くらいから、村中の家に獅子舞が回るんです。今は車で行きますけど、昔は太鼓の台を担いで歩いていた。僕は幼稚園くらいのころから、ずっと獅子舞について歩くぐらい獅子舞が好きだったんです。理由なんてないけど、見てたらだいたい憧れてくるもんなんです。小学校3年生ぐらいの時かな。学校帰りに、獅子舞の道具の鈴を持たせてもらったことがあって。あれはワクワクしたなあ。神さんのもんやと思ってたから、鈴についてるふさが地面につかへんように、大事に持って歩いたのを覚えてます。

火事で消えた学校、残ったヒノキの木

昔は、島ヶ原小学校と中学校が鸕宮神社と同じ敷地内にあったんです。神社の石段は143段あって、石段を下りたところに学校があった。ちょっと悪いことしたら、石段に座らされたりしてね。

授業中に学校を抜けて、神社で遊んだこともあった。僕らは戦後すぐの子どもで、「50人学級」っちゅうやつで人数が多い。教室からこっそり抜け出してもばれへんから、神社でよく椎の実拾いをして遊んでました。どんぐりみたいな実で、皮を剥いたら白い実が出てきて、それがおいしいんですよ。友達と一緒に、ポケットいっぱいになるくらい拾ったなあ。

神社前の石段の写真(山菅さん提供)
石段の先にある神社境内

でも、その学校は昭和34年に火事で燃えたんです。小学校も中学校も全焼。あれはショックでした。貴重な学校だったし、木造の校舎でね。

校庭にあった大きなヒノキの木だけは今も残っています。小学校の頃は、その木の下で『胴馬(どうま)』っていう遊びをしていました。みんな、「どんま、どんま」って言ってね。馬みたいに列を作ってジャンプして遊ぶ。一番楽しい遊びでした。今は学校が移転したから、校庭の中ではなくて、運動広場のところにあります。昔より低い木になってますけど、今も残ってるんですよ。

火事で燃えてしまう前の木造校舎(山菅さん提供)
現在も残っているヒノキの木

天狗として舞い、仲間と過ごした日々

島ケ原には、神社に奉納する『獅子神楽』を継承するための保存会があって、この地域の獅子舞文化を守り伝えていてね。僕が28歳ぐらいのころ、その保存会に入って初めて踊りを踊ったんです。僕は『鼻高さん』っていう天狗の役から始まったんです。練習を見ていたら「お前、明日から天狗せい」と言われて。滑稽で、コミカルな踊りで進んでいく、鼻高の舞って言ってね。もう、見よう見まねで必死でした。でも獅子舞が好きやったから、天狗の役が回ってきて嬉しかったなあ。

当時は、島ケ原に飲み屋は少なくて、その代わり、『てっぱつ』っていう飲み方があったんです。一升瓶を置いて、みんなで注ぎ合って飲む。「今日飲もうか!」いうて、集まったらすぐ飲める。どこか誰かの家でもいいし、その辺の芝の上でもいい。つまみも持って集まって、円になってね。先輩の話を聞きながら飲むのが楽しかったなあ。

昔、伊賀で栄えてたのは、上野かな。上野天満宮の近くに、ハイカラなスナックばっかりずっと続いてる、通称『六本木通り』があってね。東京の六本木とは似てないと思うけど。スナックでは、手拍子しながら歌って、飲んで喋って、楽しかった。今はもう、その通りはなくなってしまったけどね。

現在の上野天満宮付近の様子

村の獅子舞を、これからの子どもたちへ

今、僕は獅子神楽の保存会の代表をしています。子どもたちに獅子舞を教えるのが、活動の中心です。若い子らは、みんなほんまに熱心でね。感謝してます。これからも続けていってくれたらいいなと思ってます。

保存会に入ると、地域を回りながら人と交流して、挨拶もしっかりできるようになるんですよ。そういう姿を見ると、やってきてよかったなぁと思います。以前は、保育園や小学校を回って、行事で舞を見せてたんです。するとね、見てる子が獅子舞の真似をして踊りだしたりする。そういう子に「入ってみるか?」と声をかけて、スカウトしてきたんです。

今でも、お祭りのときに、目をキラキラさせて見てる子がいる。そんな昔の自分みたいな子に、また声をかけていけたらと思ってます。

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