自分の住むまち、生まれたまちのことって、案外知らないもの。まちのあちこちに歴史を記す石碑があったり、偉人の功績を称える記念館はあるものの、当たり前すぎて気に留めていなかったり。でもよくよく見えていないだけで、三重という土地にはたくさんの魅力あふれる物語が詰まっているのではないでしょうか。
そこで、三重県のまちのことをよく知る方たちに、教科書や資料では見えてこないリアルなまちの出来事をお聞きし、さまざまな角度から三重の魅力を探して行きます。何の変哲もなく見える、私たちのまち。でも深く深く掘り下げていくと、そこには思わず驚くような事実が見えてくるに違いありません。
美しい海や豊かな海の幸、そして独自の文化を残す離島など数えきれない魅力で溢れている鳥羽市。
今回の取材では、鳥羽水族館や鳥羽港から徒歩圏内にある「鳥羽なかまち」を取材。かつては「鳥羽の台所」と呼ばれ、昔ながらの雰囲気を残すお店や建物が多く残されています。地元民に親しまれているお店や、鳥羽の歴史を感じるスポットなど魅力あふれる「鳥羽なかまち」を、合同会社NAKAMACHI代表である濱口さんのナビゲートで散策しました。
※「鳥羽なかまち」とは、鳥羽水族館から歩いて5分の場所にあります。地元民に昔から親しまれているお店や歴史館が立ち並ぶ、鳥羽観光を存分に楽しめる場所となっています。
変わらぬ味を守り続ける、大正時代からの老舗豆腐屋「糀屋」
最初に訪れたのは、近鉄山田線・中之郷駅から歩いて約2分の場所にある「糀屋(こうじや)」。ここは創業100年以上の老舗豆腐屋であり、今回ナビゲーターを担当して下さる濱口さんのご実家。まずは、創業時からの歴史を教えて頂きました。
「このお店を始めたのは100年前ぐらいで、私の両親で3代目になります。最初の頃は甘酒用の糀を作っていて、他にも八百屋や豆腐屋もしていました。そこから時代の流れで豆腐専業になりましてね。両親2人だけでやってて、しかも手作りだからあまり沢山作れなくて(笑)。全自動の機械を入れる事も考えたらしいんだけど、美味しい味を出す為には手作りしかないと思ったんじゃないかな」
大正時代から続いていることもあり、店内の柱や屋根がお店の歴史を物語っています。「初めて来たはずなのに何だか懐かしい」と思うほど居心地がよく、アットホームな空間。心がほっとして穏やかな気持ちになりました。
創業当時は同じ町内に豆腐屋が3軒もあったそうですが、今は糀屋の一軒のみ。来店客のほとんどは地元の方々で、長年にわたって愛されているんだなとしみじみ感じます。
ふと見ると、お店の前にはソフトクリームの看板。豆腐屋さんになぜソフトクリームの看板があるのか気になったので伺ってみました。
「ある日、テレビで豆乳ソフトクリームが取り上げられているのを見て、母が『うちもやりたい!』と言ったことがきっかけで始めました。両親が高齢になったので数年前に豆腐作りはやめたのですが、シャッターを閉めるともったいないと思って、今はソフトクリームの販売に切り替えたんです」
せっかくなので糀屋さん自慢の豆乳ソフトクリームを頂きました。一口食べた瞬間、「豆腐!」と分かるぐらいしっかりとした味わいを感じながらも、甘すぎない絶妙なバランス!
「甘いのが苦手な人でも食べやすいでしょ?豆乳ソフトは男性にも人気があるからね」
鳥羽で参る四国八十八ヵ所霊場「慈眼山金胎寺」
続いて訪れたのは、糀屋からほど近くの高台にある「慈眼山金胎寺(じげんざん こんたいじ)」。本堂に向かう階段の途中から見える街並みと鳥羽湾は絶景スポット。
境内には参拝をするための拝仏堂や、修行大師像があり、自然の中で建っている様は凛々しさを感じます。歴代の鳥羽城主の祈願所でもあったという古い歴史を持つお寺で、ここには四国にある八十八霊場寺院の御本尊を祀っており、金胎寺の札所をすべてお参りすることで、四国のお遍路(へんろ)を巡ったのと同じご利益を得るといわれています。
山道には祠(札所)が並んでおり、一つひとつの祠が地域の方々によって大切に守られています。
「四国に行けなくても、鳥羽の人たちは金胎寺でお遍路をすることができるんです。私の母親も毎日お参りしていましたね。最近では時代の流れなのか、お遍路に関心のある人が少なくなってきていて寂しいです」
本堂は1995(平成7年)に起きた火事で大火にあい、焼失してしまいましたが、現在地域の方と共に再建に向けて取り組んでいます。鳥羽の街並みや離島などが見渡せる自然溢れる場所で、心和やかに参拝してみてはいかがでしょうか。
明治から大正時代の富豪の暮らしに思いを馳せる「鳥羽大庄屋かどや」
次に向かったのは、慈眼山金胎寺から徒歩4分の場所にある「鳥羽大庄屋かどや」。鳥羽の大庄屋(江戸時代の村役人)であった廣野家の住宅の一部を公開しており、当時の暮らしぶりを垣間見ることができます。廣野家は角家と呼ばれ、薬屋を営んだ鳥羽を代表する旧家です。
中に入ると、かどやのスタッフの方が案内してくれました。
「これが当時の薬屋の看板です。金箔が使われており、当時は看板自体がお店のステータスであり信頼の証ともされていました」
「こちらの電話機は、横にあるハンドルを1度回してから受話器に耳を当て、交換手に繋がったことを確認します。そのあとにお金を入れたら、電話回線が繋がる仕組みです」
展示されているものはどれも映画などで見たことがあるものの、実物を目にするのは初めてのものばかり。驚きの連続でつい時間を忘れてしまうほど、今ではなかなか見ることのない形状や、そのものが持つ歴史に惹かれました。
個人的に好きだったのは、明治末期から大正初期に製造されたガラス。この時代独特の製法による歪みが、何とも味わい深く、レトロな雰囲気が魅力です。
また、かどやで行われている茶道体験を今回の取材のために特別に開いていただきました。
「6時と12時の方向に縦に手首を使って泡を点ててみなさい。クリームの様にきめ細やかな泡が出れば完成だよ」
先生にアドバイスをいただきながら挑戦するものの、なかなか思うように点てれず、何ともぎこちない動き。とりあえず形にはなったので、早速飲んでみると…苦みや渋みが少なく、とてもまろやかな味。思ったよりおいしくできたので、一安心(笑)
自慢の窯で作る海の幸の燻製「海童工房 魚寅」
最後に訪れたのは、牡蠣をはじめとした海産物の燻製や発酵食品の製造販売をしている「魚寅(うおとら)」。店主の杉田さんは鳥羽の魚問屋の三代目として生まれ、幼少期から新鮮な海の幸を食べて育ちました。
工房の中には自家製の大きな燻製釜があり、牡蠣以外にもたこやタイラギ貝など様々な海産物が燻(いぶ)されています。店内は、熟成された燻製の香りに包み込まれています。
「私がこの商売を始めたのは、平成5、6年だったと思います。ここは元々祖父が魚屋をしていたのですが、私が高校卒業する頃に亡くなって、それからは何年かずっとシャッターを閉めていたんです。私もその頃は県外で別の仕事をしていたんでね。でもこの店は何とかせなあかんて思って、ここに戻ってきてまずは改装から始めました。燻製のやり方とかね、そんな情報は独学で覚えてったって話ですよ」
杉田さんが燻製をはじめようと思い立ったきっかけは、昔、父と一緒に牡蠣やアサリなどで佃煮を作ったことを思い出したから。とれ過ぎたもの、売り切れなかったものなどで佃煮を作る習慣があったそう。
昔作っていた佃煮にヒントを得て、燻製を始めたものの最初は失敗の連続。
「うまく水分の抜き方が分からずに失敗してしまい、全部捨てるしかない時もあって…その時は本当にガッカリしました」
試行錯誤しながら作り続けていくうちに燻製商品がヒット。最初は業務用の燻製窯を使用していましたが、生産が追いつかなくなったため、さらに何倍もの大きな窯を自作したそうです。
「ステンレス製の窯が見えるでしょ?あれが最初の燻製機械。使い始めてすぐに、このサイズではもう無理だなって思う様になってきて。レンガ600個くらい買ってきて窯を自作したんですが、初期の倍以上の量を作れる様になりました」
杉田さんは、どうしたらもっと美味しいものが作れるかと考え、海産物独特の臭みやぬめりを抑えてもっと旨味や香りを出せるように研究を重ねます。さらに今度は、発酵に関心を持つようになりました。
「味噌って大豆のタンパク質を発酵させて作るでしょ?それを魚のタンパク質で発酵させて味噌を作ったら面白いかなと思ってね。今度は発酵食品にも挑戦しているんですよ」
いつまでも昔懐かしい雰囲気が人々の心躍らせる
かつては地元の食材を扱う店で賑わい「鳥羽の台所」と呼ばれたまち。今なお残るお店や建物はどれも歴史が古く、沢山の思い出が詰まっています。このまちが今も歴史を残しながら存続するのは、まちの人たちの努力の賜物。鳥羽なかまちを愛する温かい人の想いに触れ、このまちの魅力を感じる時間になりました。
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