鮮明に記憶している、大三駅での疾走

今住んでいるここ、安部田(あべた)の鹿高(かたか)地区が出身です。結婚してから大阪の方に行ったりはしてましたけど、中学上がってからずっと名張。結婚するまでは、母とろうあ者の妹と私と、3人で暮らしててね。

父は私が小学校1年生の時に肺結核で亡くなったんですよ。家でずっと養生してたんですけど、途中から大三(おおみつ)に。今、三重病院ってあるでしょ。あれが昔ね、結核の病院だったんですよ。そこにお父ちゃんを入院させましたわ。

その後、私が小学校に入ってすぐの年の6月に大三で亡くなったんです。その時の記憶を今でも鮮明に覚えてて。学校で、金魚を売るおじさんの絵の麦わら帽子の部分を描いてた時に、担任の木野先生っていう優しい女の先生が「ちょっと小澤さん、おいで」って言うから行ったら、「お父ちゃんが亡くなった。おばさんが迎えに来てるから、早く大三に行き」って。

電車に乗って、大三駅を降りたところの坂をバーッと走っていったのを覚えてるんです。だから、いつもあそこを通るたびに思い出します。駅の左の方ずっと行ったらガードがあります。あそこをくぐって、1人で走っていった。

大三駅を降りて左手の風景

小さくて「亡くなった」って言葉だけでは分からないから、お父さんが亡くなった後、鼻とか耳とか綿を詰めてあるところに「こんなしたら息ができへん!」って言うて、取ってあげたような感じを覚えてますね。

子どもの「遊び」と「仕事」

私が子どもの頃は、買い物に行くようなところがなかったんですよ。せやから、ここらへんはみんな行商。自転車で魚も売りにきてましたけど……魚って言っても、カマスゴの釜揚げとか。お肉も自転車で売りに来ました。
肉屋さんは竹で編んだ四角いカゴに、魚屋さんは木の箱に入れて、何段にも積んで自転車で来ました。

カマスゴ・・・イカナゴの成魚の関西での呼び方

それから、紙芝居のおっちゃんも来た。『かちかち山』とか『金の斧 銀の斧』とか。5円か10円かそこらか、お金持ってかないかんけど、その紙芝居のおっちゃんは駄菓子をちょこっとくれた。ストローにラムネの粉を詰めたようなんで、吸うたら甘い。それと、薄っぺらいえびせんべいの肌色でふわふわのところに、甘いタレかなんかを手で塗ってくれる。そんなんやったなぁ。

ここらへんの近所の人、子どもも昔はけっこう人数が多かったです。だから高学年も低学年も、近所の子全員が仲良しやったで、よくみんなで遊びました。

昼から家の中にいるっていうのは、まぁないですわ。外行くのはね、芝刈り。お風呂は今みたいにガスとか、あんな便利じゃないですよ。みんな、大きな薪で焚き付け。薪はマッチで火付けてもすぐに燃えへんけど、「焚き付け」っちゅうて山の枯れ葉、それから松の細いやつが落ちてるのを拾って使うんです。すると山の掃除になるじゃないですか。だから、山はものすごくきれいやった。稲刈りの後の田んぼにタニシ取りに行ったりね。取ったタニシは、湯がいて味噌和えです。

だから、遊びプラス家の用事やね。今みたいな本当に遊びだけって意味ではないね。

学校が休みの時は、宿題なんか家でしないんですよ。公民館で高学年の子が教えてくれて、私らが高学年だったら下の子を教えたりね。

その公民館の下で、11月になったら「亥の子餅」っていう行事を子どもがするんですけどね。ダルマみたいな石に縄つけて、それをみんなで引っ張って。みんな1軒1軒、家の前に来るんです。それは男の子だけの行事やったけど、今はもう子どもの人数が少なくなってきたから、女の子も参加してる。

裸電球の下でもらった言葉

お父ちゃんがいなくて、お母ちゃん仕事せなあかんから、家の用事はみんな私が。「電球切れた」って言うたら中電(中部電力)行って、その電球を交換してもらいに行かんとあきません。

貧しかったのは嫌やったけれども、今から思ったら、いろんな体験をしたり、いろんなことを母が火鉢のはたの裸電球1本ぶら下げたところで話してくれましたわ。昔の習わしとか人に対する言葉遣いとか。

「近所の人に何かもらったらありがとうって言う、お母ちゃんにも言わなあかん」っていうこととか、「立つ鳥跡を濁さず」とかね。それから、妹が耳聞こえなくて、昔で言う「つんぼ」ってよくからかわれた。「そんな時はあんたが助けてあげなあかんねん」っていうこととか。「だから知子はこうせなあかんねん」っていう、生きていくための教えかな。

私、ものすごい妹が好きやったんです。私より2つ下で、可愛かった。2人兄弟で、私が手真似して説明をするとか、そんなんも楽しかった。

みんなから見たら、「あんたほど苦労したもんはないな」って言われるけど、私は苦労が何かわからん。それが当たり前だったから。やけど、やっぱりそれの積み重ねで今の私があるんやなって思います。

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