絵描きの町、大王町波切

実はこの大王町波切(なきり)は、絵描きの町なんです。大正時代から、日本中のトップランナーといわれる絵描きの人たちがみんなここに来ています。今では、絵描きのビギナーである子どもたち、高校生、大学生、その他の方々がみんなここでいろいろ絵を描く。そして有名な画家となって育っていく、ひとつの登竜門の場所なんですね。ですから、春休み・夏休みにまたお越しください。皆さん、ここの前で絵を描いておられますから。

我々がこの絵描きの話をなぜするかというと、大正時代に、京都の画家・土田麦僊(ばくせん)さんが画学生だったころにここへ来た。実は、この先生に師事した人が、うちのロゴをデザインした先生なんです。京都の版画の第一人者、徳力富吉郎さん。なんとこの絵、98歳、晩年の作品。力強いでしょ? この絵を遺して他界されましたが、弊社の宝物です。

話を伺った場所は「かつおの天ぱく」の鰹燻し小屋。見学会も定期的に開催している(要予約)。

これを描いていただいた時に一言言われました、「天ぱくのために、100年経っても色あせないデザインができたよ」――と。確かにそうです。その瞬間、私も家内も、値段の交渉ができなかった(笑)。

燻し小屋の中の風の神様

ちょっと燻し小屋の中に入りましょう。普段は煙が濃くて涙がボロボロ出るような場所ですけど、神棚があります。普通、こんな場所には神棚を置きませんよね。だけど、なぜここにしたのか。ある人が来たときに、この場所は裏手に崖があって、「これは天白さん、台風シーズンはたいへんですね。ならば、風の神様をお祀りください。守ってくださいますよ」と。

伊勢神宮の神様へ届けるものづくりをする場所として、天照大神を真ん中に持ってきています。その右手に、伊勢神宮の内宮(ないくう)さんの中ほどに必ずお祀りしている風の神様をお祀りさせていただいています。

本来ならば五穀豊穣のための風ですけど、これは台風の災害から守ってくださるための風の神様。これをやったおかげか、大型台風が来た時に海を通過すると風向きが変わったんです。ここはできてから100年経つようなボロボロのお屋敷ですけど、おかげさまで今も皆さんに見学していただくこともできていると。

波切と鰹節の歴史を語り継ぐきっかけになった「番付表」

なぜ私がこうやって鰹節の歴史を話しているかというと、20歳の時にこれを図書館で見ちゃったんです。江戸時代、文政5年の鰹節の番付表です。江戸時代のバブル絶頂期、江戸の庶民たちがこういうランキング表を作った。書いてある地名は、今の鰹節の産地とほぼ一緒です。真ん中を見てください。この真ん中に「志摩 波切節」と出ている。

同じランキングに、勢州(せしゅう)とあります。昔、三重県の桑名から尾鷲の辺りまでの広範囲を、勢州と言ってた。この志摩半島は「御食(みけ)つ国」と言われて、大きな勢州と同格で、伊勢志摩の鰹節がなんと行司役を、という時代だったんですよね。良いものはちゃんと評価されていたというわけです。

これを見た瞬間、「こんなちっぽけな漁村がこんな大役を仰せつかった時代があったのか!」とスイッチが入って。ならば、その歴史の火を消すのはもったいないということで、ストーリーを考えて話をしています。

仕事を誰のためにやるか

番付表を見つける前に、前哨戦がありました。ハワイ大学に1ヶ月留学してた時に、自己紹介で世界中から同年代の学生が集まっているなか、1人のフランス人の女性が堂々と自分の土地のことを発表したんです。「私の田舎には、ブドウ畑しかない。ただ、世界で有名な料理人とかソムリエたちなんかがやって来て、1房のブドウを10万円で売ってくださいと平気で言うんです」

これを聞いた時に、周りの学生たちは全員その人に注目して、「彼女の故郷に行ってみたい」と言ったんです。それが衝撃的だった。自分の番が回ってきた時に、残念なことに私は自分の地域のことは一言も喋れなかった。なぜならば勉強してなかったから。生まれ故郷のことを自慢できなかった。こういうバックボーンがあって、帰ってきて自分の土地のことを知るために図書館に走ったんです。その感覚で探してたら、番付表が目に入った。こういった流れがあって、今。

生業としてじゃない、自分の仕事を見つけようとした時、「誰のためにやるか」が大切なことです。私にとっては、家族、ご先祖さんでした。

この地域のご先祖さんが苦労して波切の鰹節を守ってきたわけじゃないですか。ならば、語り部としてこの情報を発信しよう。モノとか景色とかが地域資源だけど、人や歴史観というのも地域資源であると、そういうふうに考えました。

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