
戦後、医師を志した幼少期
生まれ故郷は神奈川県の鎌倉市。ですので、生粋の湘南ボーイでございます(笑)
僕は昭和12年生まれで、ちょうど戦争の前から太平洋戦争にかけて幼少期を過ごしているわけですね。親父が海軍の機関大佐だったんで、いろんな軍艦の修理もやっていて、戦艦大和の建造にも携わっていたんですね。
親父はそういう危険地帯に行くし、僕ら兄弟全員は疎開で名張の美旗へ、だいたい昭和20年から3年くらいいました。
僕を生んでくれた母親の実家が美旗でそこに疎開したんです。ところが、昭和20年の6月に空襲にあって、僕らが疎開した家を含めて10何軒も焼夷弾で焼けちゃうんですね。
通ってた小学校は、ある日、機銃掃射にあって、けがした人たちを運び込む病院みたいな感じになりました。そういう、戦争の末期から終戦までをそこで迎えました。それから、親父の転勤でまた横浜へ。そのまま小学校を卒業して中学生になりました。
今、僕が住んでるところは、江戸時代から続く医者の家です。その地域は昔、「比奈知村」って呼ばれた小さな村で、僕は中学2年生の時にそこへ養子に行かされたんですね。僕を育ててくれた養父、養母には子供がいなくて、江戸時代から続いた家業が自分たちの代で潰えてしまう、なんとかしたいっていうことで、僕が養子に行きました。


僕は小さい時から、医者に憧れがあったんですね。というのも、僕の実の母親が連れて行ってくれた映画館でたまたま『手袋を脱がす男』っていう素晴らしい映画を見たんです。
その映画では、戦争に行って帰ってきたお医者さんが、行くあてもない病人とかけがした人を、焼け野原で薬も何もないんだけども一生懸命治療するんです。そしたら周りの人たちも、医療費代わりに焼け跡から木を集めてきたり、トタンを集めてきたりして掘っ建て小屋のような診療所を建ててくれるわけですよ。そうやって、皆さん一緒に一生懸命焼け跡から医療を作り上げる。そういう映画を見たのが、すごく印象が強くて。それで、医者になりたかったんですね。
お餅が欠かせない田舎の暮らし
実の親父が転勤であちこち回ったから、鎌倉での思い出ってのはあんまりないんです。でも、名張は都会の景色とは全然違いますよね。すごいガラッと変わったのは覚えています。
遊びも全然違いますね。夏になったら、今は、皆さんプールに入るでしょ? 当時は、川に浸かって泳いだんですね。
川へは泳いだり、魚釣りに行くわけですよ。ハエ(うぐい)を釣っては食べてましたよ。串に刺して焼いてね。魚釣りは田舎でできた友達が、最初に教えてくれた遊びでした。
あと、友達から教えてもらった魚取りもしょっちゅうしました。川原から石を運んできてね。石を、川原と並行に川上から積んでんでいくんですね。最後はだんだん狭く石で囲っておくんです。それで、みんな川上からバシャバシャバシャって泳いでいくと魚がみんな入ってくるわけです。石の囲いに追い込んでね。そこから先はみんな手分けして、手掴みで捕ったりもしました。


都会生活は、戦争の後で物質がすごく不足している時代で、毎日毎日、食べることに不自由があって、実の両親は本当に苦労したと思いますよ。その点、田舎では食べることに関しては不自由はなかったですね。そんなに物がなくなってしまうって感じがなくて、3食きちんと食事させてもらってました。
内容はお野菜が中心で、お魚はほとんど塩漬けとか干物とか。生のものがなくて、なかなかお刺身なんかは食べるチャンスがなかったね。
それに、田舎ではお祭りであったり、お彼岸であったり、お正月であったりのときは必ずお餅つきが欠かせないですね。
当時、中学生で男の子ですからね。やっぱり力があるんで、親父に「お前、お餅つけ」って言われて、つかされたんですよ。だから僕は、お餅をつくのがめちゃくちゃ上手になりました。
夏休みとか春休みなんかね、おばあちゃんのところに親戚や子供たちが集まると、みんなもうお餅を取りあって大喜びでした。お腹空かしてましたからね。
(餅の味付けは)いろいろですよ。おばあちゃんとか母親があんこを炊いたり、きな粉を作ったり、いろんなバージョンのものを用意しておいて、みんな取りあって食べてましたね。
やっぱり、今みたいに冷蔵庫があるわけやなしね。冬に入る前には、1年分のかき餅を作るんです。かき餅ですから、普通の白いお餅じゃなくて、お餅の中に大豆を入れたり、干し海老を入れたり、青のりを入れたり、お醤油を入れたり、ひと臼ごとに味を変えていくわけです。
それを薄っぺらいかき餅にして、保存食として1年分くらい作るんですね。かき餅を作るときなんか、朝4時から起きて、結構大変ですよ。
培われた、学びと体力
中学校は、地区から歩いて通えるようなところじゃないんですよね。比奈知から名張中学校まで、自転車で山坂を片道4キロ。当時僕は自転車に乗れなかったけどね、なんとか練習をしました。でも、今みたいなそんなにいい自転車はないですよね。当時、ママチャリなんかなかったから、もう大変。荷物運んでもいいような、しっかりした自転車に乗って一生懸命、山坂をガーッと走っていました。足腰はしっかり鍛えられました。
養子に迎えてくれた両親は、やっぱり、自分の子供にして大切に育てたいっていう思いがあったからか、なかなか遠くの学校へは出してくれなかったですね。
医者になるって言ってこの家に来たわけですから、何が何でも医者にならないかんって勉強して、三重大と名古屋市立大学に受かったんです。本当は名古屋に行きたかったんですけど、親父とお袋に「下宿はだめだ」って言われてね。だから、大学6年間もやっぱり比奈知から自転車で駅まで行って、それから片道1時間、電車に乗って津まで通いました。
毎日が大移動です。電車で片道1時間、どうしても揺られていくわけです。でも、わりかし、集中できるいい時間だったから、電車の中で教科書以外のいろんな本をたくさん読んでました。哲学の本とか、カントの『純粋理性批判』なんて読んでましたよ。本当に難しいんです。数行読むのに1時間くらいかかる。でも、それを6年間続けて、いろんな本を読めたから、それは結構楽しかったですよ。
今から考えてみると、一番難しい年齢でしょ。よそからもらった子供というのもあったけど、親父も、お袋も、よくぞ育ててくれたなと思いますね。


ライフ・テクノサービス広報担当。LTSブログも更新しています。推しがジャンルごとにいます(担当色が緑か青に偏りがち)。