壮絶な困難を乗り越えたからこそ、今がある

私が産まれる前、父は戦争で満州にいました。なかなか日本に帰国する事が出来ずにそのまま満州で就職して、生活をしていました。昭和19年10月に見合いで知り合った母と結婚をし、その後お腹に赤ちゃんが出来たんですね。それが僕ですわ(笑)

昭和20年8月に終戦を迎えたけど、当時は兵隊さん以外の一般人は満州に取り残されてた時代だったから、ものすごい大変やったと思う。早く帰って赤ちゃんを産みたいからね、看守にばれない様に帰国する船を強奪した人もいたって話も聞いたかな。いろんな苦難を乗り越えて、なんとか日本に帰国してから数日後の1月6日に僕が産まれました。もし満州で産まれていたら孤児になってた思いますし、船上での出産の可能性もありました。

幼少期の僕はとても大人しく人前に先立って行くような子じゃなくって。母親のエプロンを掴んで後ろについて歩いたり、人見知りな性格でしたね。少しずつ話せる様になったのは高校時代ぐらいからかな~。当時は青年団(18歳~25歳の地元民が所属して地域活動をする団体)に入っていて、色んな人と交流していく内に変わっていったんやと思います。今の奥さんもその活動メンバーの一人で、知り合ったきっかけにもなりましたね。

今も昔も変わらないのどかな街並み

亀山市の雰囲気は昔もこんな感じやったな。この辺はお店が全然なかったけど、私の家は元々タバコ屋だったんですよ。私の爺さんが始めて。他には駄菓子屋もあったかな。代替わりで父の兄弟が経営してましたけど。周りにお店も遊ぶ場所も無かったもんで、子供達はみんな駄菓子買いに来てましたね。昭和の終わり頃には全部閉めちゃったから、今は跡形も残っていないですけど。

地元の街並み

後は歴史的な事で言えば、東海道の一里塚があって江戸幕府が東海道の整備をする際に、立てられたんやわ。(地元の)観光名所になっているね。

一里塚:徳川幕府が江戸日本橋を基点とし、諸国の街道に沿って一里ごとに設けさせた里程標

子供達から貰える元気なパワー

妻と結婚して40年以上続けた仕事を退職後、今はボランティア活動をしているんですよ。「放課後教室」って呼んでるんやけど、地域の小学生達に色んな体験事を教えていますね。

例えば料理だったり、お抹茶を点てたり。僕以外にも教えてくれる人がいてな、凄く楽しいですよ。この活動をして20年くらい経つかな~。きっかけは知り合いから誘いを受けてな、仕事辞めても特にする事も無いからやってみようかなって。

子供達からはね、「けんちゃん、けんちゃん!!」って気軽に話しかけてくれますよ。人気者なのかな(笑)。やっぱり子供達から若いエネルギーをもらうと「まだまだ負けてられない!」って気持ちになるし、今もボランティア活動を続けられている源でもあるかな。

その子たちがな、中学生になっても挨拶してくれるんやわ。「けんちゃん、久しぶり!覚えとる?」ってな感じでね。でも小学生の時とやっぱり顔つきが変わって来とるもんで、何となくは分かるんだけどたまにすぐ思い出せない事もあるね。

ボランティア以外には陶芸も趣味で楽しんでいてね、最初は中々出来やんかったけど出来やんなりに「もうちょっとやってみよう」っていう気持ちがあったから、今も続けれているんやと思う。

あのお皿の模様も窯の中で偶然出来た形ですし、どういう風に焼きあがるかすごく楽しみですね。初めの頃は週1程度で陶芸教室に通って習っていましたけど、今は家で焼いたりしていますね。自分が作った物を知り合いにあげちゃう事もあるし、喜んでくれる姿が本当に嬉しいです。

健介さんの陶芸作品:皿
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