贅沢は出来なくても、毎日が楽しかった

5人兄弟の次男として生まれ、津市神戸(かんべ)で育ちました。姉2人と兄、下に弟がいて、長男は早くに亡くなったのですが、兄弟仲は穏やかであんまり喧嘩とかもなかったかな。家の周辺は遊べるような場所やお店とかは全然なくって、子供の時は川や山にばかり行ってました。

夏になると近くの川ではシジミ貝や小ぶりのエビがたくさん捕れ、それに当時は鰻もようけ釣れましたね。そこそこのサイズの鰻もおったりしてな、そら~捕れた時は嬉しかったし、迫力もあった!昔はな、今みたいに肉とか魚はあんま買えん時代やったさかい、贅沢も出来ませんでしたから。

秋になると近所の山へ行って、シイの実を捕って食べてましたわ。フライパンで炒ると中から白い実が出てきてな、素朴な味がするんよね。他にクワの実も食べてたけど、これは甘酸っぱくて、口ん中が紫色になったりした。お金をかけん遊びってなると結局は山とか川になってたけど、それでも毎日が楽しかったなって思うね。

幼少期に魚を釣って遊んでいた川
木の実を採っていた山林

お米の価値は今も昔も変わらない

家は米農家をしとるもんで、中学生の頃から学校に帰ってきてはすぐ田んぼに行って手伝ってましたわ。昔はトラクターが無かったもんで手で稲刈りしてね。周りの友達は高校進学で上京する人もおったけど、家系的に学問より百姓が優先みたいなところもあったもんで、もし自分も進学しようとしてたら、きっと両親に帰って来んと思われて怒られてたと思います。

何歳の時か忘れたけど、お米の日本一を決める大会に出ましてね、東海近畿ブロックで一位になったんやわ。この大会は朝日新聞と農林省が共同で開催したもので。全国から農家がたくさん集まって昭和24年から20年間ほど続いたんさ。この大会は戦後の食糧難の時に開かれて、農家の技術とかを全体的に上げてく為の大会やったんさね。

昔と比べて今は、米作りの技術がかなり進化してきてますけど、この大会が当時の農家の意欲を掻き立てたきっかけじゃないかなとも思ってます。今となれば、高校に行けなかったのはそういう環境にいたからなんじゃないかなって(笑)

山崎さん所有の田畑

苦難を乗り越え、今がある

農家をしながら消防団にも所属してて、かれこれ47年ぐらいいたかな。当時は各地区から何人か候補生を輩出しなければいけなくて、それがきっかけで入団しました。消防団にいたときは市民マラソンの警備をしたり、他にも色々な行事に出席しなくちゃいけなくて、農家の仕事もあったもんで毎日が忙しかったかな。夜も帰って来るのが遅くてね。

目まぐるしい毎日が続いていたけど、おかげさまで永年勤続表彰や長官表彰とか、色々な勲章を天皇陛下から貰いまして、春と秋にある叙勲(じょくん)には家内と一緒に皇居へ行きました。勲章はどれも頑張った証として大切にしてます。

今は退職して家の田んぼも業者にお任せしとるもんで、昔頑張ってようけ働いた分、日々の生活をゆっくり過ごしていきたいね。

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