厳しかった見習い時代
僕が生まれる前は戦争の時代だもんで、両親は東京から津の栄町に疎開してきたんさな。身寄りもなんも無い場所に来たから、すごい苦労したんだと思う。僕が生まれた頃の栄町は遊ぶ場所なんてなんもあらへんかった。お店もお饅頭屋さんとか八百屋さんとかタバコ屋さんとかしかなくって・・・
当時、23号線を造る為にこの周辺は区画整理で工事をしてたから、近所にあったお店は無くなったり、三重県庁も元々は栄町にあったんだけど今の場所に移ってしもうてね。
僕が4歳の時に父が亡くなって母子家庭の環境で育ったから、定時制に通いながら近所の寿司屋にアルバイト行ってたんだよね。そしたらそこの親方に「人手が足りとらんもんで、正式にウチで働いてくれないか?」って誘われて。それで中学卒業後にそこへ働きにいったんだけども、初めから寿司を握らせてもらえるわけでもなく、ずっと配達ばかりで。店に戻ってきて暇があったら親方の動きを見て自分のモノにしてたな。
当時はな、教えてもらうんじゃなくて、見て習いなさいってよく言われてな、寿司の握り方や包丁の使い方からなんもかも。環境がほんとに厳しくて、休みも月2回くらいしかなかったんじゃないかな。
今日辞めようか、明日辞めようか、いつ辞めようかって毎日思っていた。何回も心折れかけた時はあったけど、そん時に一番支えて貰ったんが母かな。色々と相談に乗って貰っていたし。それから10年ほど厳しい修行を積んで、29歳の時に独立してお店を開業しました。
見た目の美しさにもこだわる
お店の名前が「俵屋(たわらや)」っていうんだけど、昔は米俵がピラミッドの様に何個も積み上げられて置いてあった家は、裕福な象徴だったんさな。この店もそういう風になったらええなっていう願いも込めて、家内と一緒に決めた。
バブルで景気が良かった時は、お客さんがようけ(たくさん)いて、店内は人で溢れかえってた。カウンターで食べる寿司が好まれてた時代だったからかな。
味はもちろんだけど、特に見た目にこだわりを持っていてね。例えば、バレンタインデーの時には半分に切った鯖寿司をハート型に並べたり、巻き寿司を花型にしたりとか、目でも楽しんで貰えるように、他の店ではない事をしていた。アイデアがポンポンと浮かんでね、寝てるときにパッと思いつく事もあった。こっちの配列のほうがいいなとか、盛り付けはこれがいいなとか。
目は口ほどに物を言う
僕は昔から合気道をやってたんだけど、数年前まで師範として頑張ってたんよね。技を教えるんは当たり前なんだけど、何より気持ち、人間的な部分を大切にしていた。たとえば、何を考えているのか、どんな表情をしとるのかとか。
ただ上手で天狗みたいになっとる人もいれば、その上手な人の中でも謙虚さとか初心を忘れとらん人もおったし、そういうのは相手の目を見れば感じるんよね。要は人間味があるかないかだね。僕が稽古してた時にいつも言っとったんは、目は口ほどに物を言うよって。
だから今も大事にしている「情」の部分は、寿司に対しても同じように出しとった。握り方ひとつにとってもそうで、ただ握るんやなくてお客さんが喜ぶ笑顔とか気持ちをイメージしたり、並べ方もちょっと工夫したり。僕が持ってる人間味みたいな部分を寿司に表現してね(笑)そういう人がこれからもどんどん増えてきゃ、世の中ももっと明るくなるんじゃなかろうかって。
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