大学入学で三重を離れるまでの生活

小学校は、三重大学教育学部附属(ふぞく)小学校でした。今の附属小学校は観音寺のあたりだけど、当時は三重師範学校男子部附属小学校という名前で現在の津市役所の辺りにありました。小学校の近くには津城があって、北側に当時の三重大学芸学部(現・教育学部)がありました。

中学校も附属中学校だったんですが、今の大学病院あたりにありました。このあたりは三重大農学部の実験農場プラス校舎になっていましたね。

中学1年生の頃はまだ背が小さかったんで、26インチの自転車で足がつくか、つかないか。毎日阿漕から7キロ、往復14キロ自転車で通ってたけど、それで結構足腰は強くなった。

高校は、津高校に通ったけど、随分近くなったなという感じでした。それで高校を卒業する1968年までの19年間、地元・三重県にいました。

小学校のあった場所(その後、現在の三重大学敷地内にの移転)

そこから、周りの人たちが大体みんな東京行くという流れだったんで、東京の私立大学に行きました。大学時代からは、初めて東京での生活。4年間東京に行ったら、父親や爺さんが銀行の経営者だったので、なんとなく銀行の後継ぐんだという意識があって、日本興業銀行(現:みずほ銀行)に入りましたね。

国際業務とか証券業務とか、いろいろ先端的なことが勉強できたっていうのが大きかった。結局、まるまる26年いたのかな。

Uターンしたからこそわかる魅力

それから父親が亡くなって母親もだいぶ高齢になってきて、自分もちょっと両親の面倒を見ないといけないかなっていうことで、48歳の時に百五銀行に入れていただいたんですね。そこからがまた三重県での生活ということになるんですが、いつの間にか東京で暮らした30年を超えていて、振り返るとあっという間だったなという感じがします。

2007年、57歳の時に百五総合研究所(現・経済研究所)の社長になりました。百五銀行自体が地域に密着した仕事がメインなんで、本部のある北勢から南から、三重県のいろいろな所を担当させてもらった。

ブランクはあったけど、県内の主要な方と親しくなって。私は特にものづくりが好きなんで、小さな工場の親父さんたちが面白いことやってると「何やってんの~?」ってすぐ飛んで行った。私が興味を持つと、中小企業の親父さんたちも喜ぶんですよね。それで非常に親しい方がたくさん増えました。

それと同時に、元々地理だとか地形だとかそういうのが好きだったってこともあって、北から南まで行ってる間にそこの土地や風土だとかを感じ取ることができて非常に嬉しかったんです。

東京で中央の動きをよく見た経験があるから、三重に戻ってきてもプラスマイナス見えてくる。その意味ではずっと三重県にいた人以上に三重のことを深く理解した、と自負しています。三重大学の客員教授として学生さんと向き合うようになってから常々「若い時に一度、外の世界を見てくるといいよ。三重のほんとうの良さがわかるよ」と言っています。やっぱり外の世界がわかって初めて地元の良さ、あるいは問題・弱点がわかってくるわけで、そういう意味でやはりいろいろなところを知るというのが重要だなと。

不思議なことに思い出される記憶

「ふるさとの山に向かひて 言うことなし ふるさとの山はありがたきかな」石川啄木の『一握の砂』やね。

こちらへ来て、普段小さい時から見た青山高原が見え、南の港へ行くと伊勢の朝熊ヶ岳も見えて。ちょっと北へ行くと御在所岳、鎌ヶ岳という鈴鹿の山が見え、そういうのを目の隅にちらちら見ながら生活するっていうのは、非常に幸せでありがたいことだな、という気がします。

故郷に戻って生活することになって、消えていた思い出が不思議なことに蘇ってくるんですよね。だからふとしたところで「中学校のとき、結構楽しかったな」「ここに池があって、こんなことやったな」「ここの教室で理科の先生がこんなこと言ってたな」って、昔の記憶か潜在意識なのか、知らず知らずの間に呼び戻されているんですよね。

空から見る景色と地元の良さ

それから55歳ぐらいの時、当時の取引先の担当者から「津市の伊勢湾ヘリポートを基地にヘリコプターの操縦を始める会社があるので、やってみませんか?」と誘っていただいたことをきっかけにヘリコプターの操縦を覚えました。自分で操縦して空を飛びたいという願望は長年抱いていたので、本格的な訓練が受けられるのは魅力で、衝動を抑えることができず、飛行訓練生になりました。

基礎訓練を終え、教官同乗のもと、伊勢や志摩方面へ飛行を行うようになり、高度200~300mから鳥瞰する市町の姿や山・川・海の光景は「素晴らしい」の一言でした。鳥羽から英虞湾にかけての光景は特に素晴らしかったですね。

操縦訓練の様子(雲井さん写真提供)

自分に羽が生えたように自由に空を飛べるという点で、ヘリコプターは唯一無二の乗り物ですが操縦に高い技術力を求められる上に、運航にかかる経費も半端ではありません。何か、もう少し気軽に楽しむことはできないかと調べた結果、三重県航空協会という、明野の自衛隊基地をベースに活動していた民間のグライダークラブがあることを知り、入会して操縦を覚え、この会が解散するまで飛んでいて、これも魅力的なものでした。

明野の航空クラブ(雲井さん写真提供)

上空から見ると町や村の距離が意外と遠いなと思ったけど、実は山ひとつ挟んでいるだけで近いんだなとか、そういう感覚が自然と入ってくる。さらに物理的に「視点を変える」ことによって、またいろんなものが見えてきたなって感じがします。空から見てみると、また更にいろんな発見がある。

空から見た青山高原(雲井さん撮影・写真提供)

緑の田んぼがあって、その向こうに青山高原が見える、海から吹いてきた風を肌で感じるという。そういう潤いがない東京にしばらく住んでると慣れるけども、やはり地元の風を感じるときにやっぱりいいな、という感じがあるんです。

これはさっきの心の底の記憶がパッと蘇ってくるんだと思うんですよね。そこでなんとなく安堵感というか、プラスに働くんじゃないかなと。そういう意味では、東京にいるのもいいし、世界に出て活躍してくるのもいいけれども、一定の年齢になったあたりでまた生まれ育った土地へ戻ってそういう環境で過ごす。そういう経験ができたことは、私にとって幸せだったなと思います。

空から見た鳥羽カントリー跡(メガソーラーパネル)(雲井さん撮影・写真提供)
空から見た鳥羽真珠島(雲井さん撮影・写真提供)

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