ホンダがもたらした鈴鹿の発展

私は昭和12年生まれで、16年に戦争が始まって、ホンダさん(本田技研工業)のところにあった海軍工廠(こうしょう)へ爆弾が落ちてきた。アメリカ側も戦争の弾を作っておると分かっとるもんで、それを狙(ねろ)うてきたわけ。

戦争の後は、34年にホンダさんが来た。自動車会社というのは子会社をいっぱい連れてくるわけ。ほやもんで、一気に鈴鹿市は発展した。

このあたりは昔から比べるとかなり変わったよ。小学生くらいの頃は、見渡す限り芋畑や山や。あと、マックスバリュのところにホンダさんの独身寮があった。あと市営住宅も。でも建物が老朽化したから、みんな壊してもう新しいのに変わっとる。

30年継続するボランティアが元気の源

30年前から、朝7時ごろに家を出て、毎日2時間は牧田小学校とか、この近辺の学校の掃除に行ってるわけ。これが、私の健康のもとになっとる。

元々は、私が自治会長をしていた時に「鈴鹿市をきれいにしよう」と市長に言ったん。でも、言うだけではあかんっちゅうことで、まず自分からゴミを拾いだしたの、毎日。

それから私は保護司を始めたんやけど、保護司やんのに、子供の心がわからん。子供の心を知ろうと思ったら学校に入るのがいいということで、学校の掃除を始めたわけ。

よく「充実人生」という言葉があるんですが、個人で充実しているだけじゃなくて、さらに、私は「祝福人生」という考えを自分なりに生かしとんの。自分だけの自己満足じゃなし、多くの人から「伊藤さん、ありがとう」なんていうのが、今、本当にあるわけ。

地域の小学校での講演活動なども積極的に行っていた

ちょっと外出しても、レジの人から「伊藤さん、あんた掃除してもうとる人やね、ありがとう」って言われたり、学校行くと、子供の親御さんから声かけてもらったりして。

信念を持って定五郎さんを真似る

私の原点はね、前川定五郎っていう鈴鹿市のボランティア精神の先駆者。小さい時に、お袋から「大きなったら定五郎さんみたいになりよ」ってインプットされとったわけ。

牧田小学校内にある前川定五郎資料室
前川定五郎の名が冠された「定五郎橋」

その人は「人の喜びは我が喜び」、人さんの喜ぶことばっか考えて一生を捧げて、86歳で旅立たれたんですね。なんとかして俺も真似っつうか、自分の性格を変えるために、徹底的に定五郎さんの真似をして人生を生きていたわけ。

伊藤さんは前川定五郎に関する執筆や作詞作曲などを数多く手掛けている

定五郎さんの真似をする前の自分はですね、37歳でどん底に落ってった。体が弱いし、ほいで上からいじめられるしさ。布団の中で泣いたわけ。結局は「人生やり直しや」ってことに気がついて、通信教育で大学受けて短大行って、体の方はジョギングしてさ。やりだしたら途端にいいことが、出会いがあってね。

人はね、自分の性格を変えるということは難しい。だけど「俺は信念を持ってこの人になりきんのや」って徹底的にその人の人生を真似して歩む、これが自分を変える近道。定五郎さんの真似をしだしたのに端を発して、それから「ありがとう!」っていう一言が、明日への大きな力となったわけ。

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