
10代の頃に百姓を継いで
私はね、津の美里町で出生したんです。野菜やお米を作って百姓をしている家の4人兄弟の長男に生まれました。母親は小学生の頃、父親は中学1年生の頃に結核で亡くなりました。稼ぎ頭の父親が早くに亡くなったこともあり、稼ぐしかなくて中学に1年行ったかどうかくらいで実家の百姓を継いだんです。忙しくて猫の手も借りたいくらいでした。腰が痛いし、若い頃は百姓がほんとに嫌いでしたね。
それでも嫌なことばかりでなく、田舎の子にしては遊び人っていうかね。ギターが元々好きやったから、バンドでギターを弾いとったわけやねん。意外とモテたんやわ。そういうこともやったりして、津にいるときも楽しかったし、良かったなって思います。
苦難を乗り越えた先には
百姓が嫌でしたから、何か違うことがしたいと22歳の時に京都へ出て、烏丸四条の呉服屋に2年ばかり勤めたんです。
そこのお客様の中に、四日市で呉服店を経営している主人がいて、その方と雑談していたときに「実は三重県出身なんです」って話をしたら、「四日市の私のところへ来てくれないか」とスカウトされたんです。そこに昭和32年から4年間勤めたんですけど、色々あって辞めたんです。
これまでは呉服屋の2階に住まわしてもらってたけど、辞めたから住めなくなり、何にも持たないでそのまま店を飛び出したわけ。その時、今の奥さんが勤めているところに電話をして、「色々あって、店を飛び出したんや」と言ったら、「私も一緒に行くわ」ってついてきてくれたんよ。
あれは冬の間だったけどね、呉服屋があった諏訪町から国道をずーっと歩いて、追分まで来たわけね。あてもなんにもなく歩いたからほんまに大変やった。本当によう歩いたなあって思う。
そこでもうしょうがないなってなって追分に家を借りようってなったわけ。でも、家や不動産屋を3・4軒回っても貸してもらえへんねん。でも5軒目くらいで、70を超えたおばあさんが「息子と2人暮らしてたけど、息子が京都へ行ったから私1人やで、こんなところでよかったら入るか」って声をかけてくれて、そこに落ち着いたわけや。

そこで生活するための費用を稼がなあかんので、持っていた反物や雑貨、奥さんが持っていた服なんかを売ったりしながら、着物の商売で独立したわけね。たまたまその時に、京都で勤めていたときに知り合った京都飛脚っていう飛脚屋さんに再会して、良い問屋を紹介してもらったんよ。京都で1週間に1回、10本~20本の反物を借りてきては、売って、売れ残ったものを返しに行って、また仕入れて。ヤマハの単車で京都まで通っていて、その生活は今思えばえらかった(大変だった)なあ。
訪問販売で売り続けた結果、みなさんに信用してもらって、ここに来て10年目にやっと自分の店を持ったんやわ。そこから約40年、商売したんです。バブルが弾けてから着物産業が下降してしもて、全然売れへんようになって廃業したんやけど、40年の間に3つ店を持てたのは良かったなあと思います。

人の人情に触れて
だけどまあ、不思議なぐらい節目節目に助けの手を差し伸べてくれる人があったな。今思うと、世の中は真面目にしておけば、神様がそういう運命を開いてくれる、本当にこんなことがあるのかいなって夢みたいなことがありました。人と人の助け合いやな。
私が呉服屋として訪問販売してた時は、家に入れてくれる人が少なかった。本当は、玄関や庭で立ち話するんやなくて、本当はちゃんと家に上がらせてもらって反物を広げたり、店で見てもらうわけなんだよね。
だから家に入れさせてもらったお客様とは、すごく絆が深まるわけだよ。お茶呼ばれてさ、「上がってちょうだいよ」って言ってもらった時の、人の人情はやっぱ忘れられんね。それが本当に嬉しかったから、私は今でも警戒心は持たず、どんな人でもうちに来たら「まあ上がっていきな、お茶でも飲んでいきな」って声をかけているんです、ずっと。
世知辛い世の中だけど、やっぱり生きていく上においてはね、自分のことばっか考えたらあかんねん。視野を広く持ってね、人が本当に悲しんでる時には、手を差し伸べて一緒に悲しみたいし、ちょっとした喜びがあったら倍以上に「よかったな、よかった」って喜んであげるような気持ちを持つのが一番やな。


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