街を盛り上げようとする気持ちは、みな一緒

生まれは名張市の丸之内で、嫁いで元町に来ました。今は丸福精肉店さんが建っている場所に鶯(うぐいす)座っていう大きな劇場があったんです。学校から帰ってきたら、両親によく鶯座に連れてってもらったりして。他にも旅館があったり、洋服屋さんがあったりと商売が盛んな時代でしたが、今はもう殆どシャッター街で空き家も全体的に多なってしもうて、何だか寂しいですね。

でも、名張の良い所をみんなで盛り上げようって言って、地元の高校生が色々と見学に回って研究されてます。街を盛り上げようと思う気持ちは若い世代にも受け継がれてるんやなと感じますね。  

当時の鶯座の様子
かつて商店が多く並んでいた元町

地元へ恩返し

女学校卒業してからは、姉の紹介で保育園に40年勤めました。子供が好きだったので、地元の保育園を幾つも経験して、最後は桔梗が丘保育園だったと思います。

定年退職後は、地元に何か貢献しようと思って配食サービスを立ち上げたんです。名張は当時一人暮らしの高齢者が多くいました。配食サービスを行う事で、食の援助をすることはもちろんですが、それと同時に彼らの栄養の管理、安否確認をすることができると考えたからです。最初は少なかったスタッフやボランティアも徐々に数が増え、最終的には地域ぐるみで見守りが出来るようになりました。

月に大体100食程度作っていましたね。400円のお弁当なので、安くって、健康的だし。私は80歳になるまでこの仕事をやってて、今でも街の方々が協力してくれているので、おかげさまで30年はサービスが続いてます。街にも人にも、ほんまに周りに恵まれてたんで、地元に恩返ししたい、そんな気持ちがあったから出来た事やと思ってます。

日記の習慣

私が生まれた頃は戦争中でしたので。毎日さつまいもぐらいしか食べれてなかったんですけど、豊かな心を持ってお互いを協力し合ってましたね。空襲警報発令されたら夜中に学校に行って、バケツリレーだの、竹やり作って練習だの。でもしんどいんは自分だけやなく、みんな一緒。そう思うと自然とお互いを助け合う気持ちが出て、人って、あったかいんやなって感じましたね。どんな時でも「ありがとう」、この感謝の気持ちはいつも持ってます。

今も習慣にしとるのが、日記ですね。春とか夏とかその季節の絵も添えて、その日の事を記してます。今日も一日無事に過ごさせていただきありがとうございますって。何も無しでぼーっとしても一日が終わる。それやったら、一つでも目標とか感謝を持ってるとまた違うと思うんだよね。今は元気に過ごせれている事が一番のありがたみかな。

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