遊びに、テレビに、勉強に……忙しかった放課後

高校卒業までは津の安東町(あんとうちょう)におったんですわ。正圓寺(しょうえんじ)の塀によう登ったなぁ。今の目で見たら「これ?」って思うくらいの高さやけど、子どもの頃には、そりゃあもう天まで届くような気がしてな。

精米所の塀にも登って、そこから向こう側に飛び降りるのが、ちょっとした遊びやった。登れたらそれだけで嬉しかったんやわ。塀に登ったからって、別に大人に怒られることもなかったなぁ。ええ時代やったわ。

あとは、近くの友達の家にテレビ見に行って、『名犬リンティンティン』とか実写の『ラッシー』とか、正座して見とったな。夕方6時になったら、どこの家もテレビの前に子どもらが集まる、そういう時代やった。

学校帰りには、新町珠算学校にも通っとった。そろばん習ってる子は、けっこうおったと思うわ。それがきっかけかはわからんけど、大人になってからは簿記の先生もしとったんです。私は簿記で食べてきたようなもんやで。

そこにあるものが遊び道具だった

山とか川、池とかでも、よう(よく)遊んだ。安濃川にもよう行ったな。あそこで魚をようけ(たくさん)捕まえたり、支流のほうまで入って、ザリガニを手で捕まえたり、釣り糸で釣ったりしてな。池はすり鉢状に深なっとって、うっかり入ったら足つかんようになる。一度溺れかけたこともあるけど、それでもまた行ってたわ。

あとは「カメかぶり」って場所があって、そこにはカメがようけおった。ほかにもタニシやどじょう、なんでもおったな。農薬が普及してからは、だんだん生き物がおらんようになってきたけど、あの頃は木をトントン叩けばカブトムシが落ちてきて、どんぐりやシイの実も拾ってな。買ったもんやなくて、そこらへんにあるもんで遊んどった。遊び場には困らんかったわ。

道端に線引いて、「瓦けり」やらして、誰が最後まで残るかみたいなこともようやった。地面はアスファルトやなくて土やったから石ころで線引いて、チョークもいらんかったわ。手も服も真っ黒になりながら、日が暮れるまで外で遊んどった。

思い出すたび、あたたかくなる

今も正圓寺の前を通ると、「ああ、あの塀か」って思いますわ。見上げたら低いもんやけど、自分のなかではあのときの高さのまんまなんです。思い出してみれば、夕方の空とか、土のにおいとか、ひとの声とか、自分の中によう残っとるなと思います。

どれもこれも、なんちゅうことない話やけど、ふと思い出すと、懐かしいんよな。

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