砂浜と桑畑のそばで過ごした子ども時代

僕は滋賀県の彦根で生まれて、1歳半か2歳半の時に、父親の仕事の関係で津の方へ来たの。昭和30年代の初め頃は繊維産業が盛んで、名古屋や四日市、あるいは津の港にオーストラリアから羊毛が入ってきていたんですね。

羊毛を毛糸にするために、脱脂をしたり汚れを取ったりする工程があって、それを専門にしている「中央製毛」という会社が津の御殿場にあったの。親父はそこに勤めてました。

僕は中学校1年まで、工場の社宅で生活してた。今でいうと、パナソニックの工場の北隣です。

現在の御殿場海岸

僕が育った御殿場の近くの海は、今は狭くなったけど、当時は今の倍ぐらいの広さの砂浜があったの。もうちょっと南の方の海岸沿いに僕の同級生がいたもんで、そこへよう(よく)遊びに行ってたんやわ。潮干狩りとかは別にせんかったね。「なんでこんなに人が観光バスに乗ってくるんやろうな」って不思議やったの。

あの頃はね、御殿場の周りっていうのは桑畑か田んぼか畑しかなかった。蚕糸(さんし)試験場という、お蚕さんの殖産・研究をするための試験所もあったんです。そこは蚕をようけ(たくさん)飼うもんで、その餌にする桑を作る畑をその周り一帯にものすごい広い面積を持ってたんやわ。

桑には実がなるんですよ。桑の実っていうのは、ブドウの房を想像してもらって、あれをぎゅーっと縮めて、1つの粒が仁丹ぐらいの小っちゃい房ができるんです。これが、甘酸っぱくて食べられるの。本当に熟したやつだと、酸味っていうのはほとんどなくて、軽い甘みだけなんです。

やっぱり子どもやで、いろんなところでいろんなことを覚えたりして。その中の1つが、「桑の実は食べられる。うまいことしたら、おいしいのにあたる」っていうことだよね(笑)。「畑に入ったらあかんよ」って言われてたんやけども、桑の実を食べたかどうかは、見たらすぐわかるんよ。唇から歯から舌から、真っ青に染まるわけ。だけど、食べてる本人は自分の顔見えてないから、大人に見つかって。

「お前ら何しとってん?」

「何もしてへん、ちょっとボール拾いに来た」

「桑の実食っとったんやろ」

「食べてへん」言うて。その頃の大人って意外と大らかやったから、「もう入るなよ」っちゅうだけで放免してくれるんやわ。で、僕らは「大丈夫や」っちゅうて、また桑畑に入っていってる。そしたら「またお前らか」ちゅうて。

ぎゅうぎゅう詰めのバスに揺られて

御殿場におった当時は、津の中心部に来ることがちょっとよそいきというか、お出かけやったんです。

今は、中央から大門のあたりの国道って立派やろ。昔はね、岩田橋から塔世橋の間はきれいな舗装道路やったの。でもきれいなのは真ん中だけで、当時は中央分離帯がなかった。真ん中に片側2車線ずつの舗装道路があって、その外側に幅1mぐらいの植え込みがあって、その外側に幅2mぐらいの土道、さらにその外側に歩道があったの。土道は、自転車とか荷車とかの通路やったんかな。橋を越してしまうと真ん中片側1車線だけが舗装道路だったの。その外側は全部土道やった。たぶん、お金の問題やと思うよ。いっぺんに整備できなかったってことで。

現在の国道23号線

あと、当時のバスはエンジンがポコッと出た「ボンネットバス」のようなやつね。当時は運転する人と車掌さんがおって、車掌さんはほとんど若い女性やったの。

朝なんてぎゅうぎゅうどころやなかった。運転席の横から後ろのシートまで本当にみんなギチギチに詰まってたから、扉も閉まらない。だから、車掌さんが扉の左右にあるバーを持って、体がほとんど車の外に出ながら最後の砦になって。そんなんで運行してた。

毎朝、そうやってぎゅうぎゅう詰めのバスに乗って通学してたの。子どもやでさ、人の迷惑なんて考えへんと、ランドセル背負ったまんま、大人の腰ぐらいのところを、かき分け、かき分け。運転見るのが好きやから、運転手さんの隣に行くの。大人はえらい迷惑やったろうね。

甲冑から広がった歴史の世界

手作り甲冑を始めたのは10年くらい前。津市政400年記念行事の時に、津まつりのために甲冑を作る教室を立ち上げるという話を聞いて参加させてもらった、というのがきっかけなんです。

僕らの年代の男の子っていうのは、小さい頃にチャンバラやったり、やっぱり鎧武者に憧れがあったと思うのね。それが大きくなってぶり返した。自分で作って、作った鎧を着て、どこかに行けたら面白いなっていうことから入ったんです。

津まつりをはじめ、さまざまな地域の祭りで時代行列を披露している(黒川さん提供写真)

でも、武将に扮することをきっかけに「この人物は?」という興味も沸くし、「この時代はどんな時代だったんだ?」ということも考える。甲冑を作りながらそういったことをぼちぼちと勉強していく間に、歴史を深く探るようになったのね。

津の歴史でいうと、高虎公は津の城下町を整備したのと、もう1つ、伊勢街道を付け替えしてるんです。旧伊勢街道は今よりもっと海に近い市街地を通ってたけど、城下町を栄えさせるために高虎公が道を替えたんですよ。

※高虎公・・・藤堂高虎(1556–1630)。戦国から江戸初期の武将で、築城の名手として知られる。津藩初代藩主。

現在、津城跡は「お城公園」として親しまれ、藤堂高虎公像が立っている

それから、津観音は日本3観音の1つなんですよ。浅草と大須と、津の観音さん。幕末の最盛期には、津の宿屋に参拝客が泊まりきれずに、本堂の床下にゴザを敷いて寝たっていうぐらい、すごい数の人で賑わったっていう話もあるんです。こうした観光資源を高虎公は利用したんです。

甲冑を通じて「これを着てた時代、その後はどうだったの?」って歴史を繋げていけるし、その繋ぎが分かると、今あるもののいろんな成り立ちが理解していける。だから歴史ってけっこう身近で、面白いものなんですよ。

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