
苦労が絶えない山の生活
大台町栗谷に住む中村明夫(はるお)さん・敏子さんご夫婦。
明夫さんは自然に囲まれたこの地域で生まれましたが、今の住まいよりさらに山奥に住んでいて生活は厳しかったといいます。

明夫さん「昔の家族は長男が先祖代々の家を神さんのように守って、ほかの兄弟は長男や家の手伝いする、そういう義務的なことがあったんや。うちの親はそんなんつまらんって言うて分家した」
敏子さん「本来なら分家する時は、本家から恩恵があってコツコツ生活ができるんやけど、ここの親は何もなかったみたい」
明夫さんの両親は土地を買い小さな家を建てましたが、貧しい生活を送りました。
明夫さん「小学校が太陽寺の近所でな。当時の家から4kmくらいの距離があった。昔は舗装してないし回り道も多かった。歩いて通うからって母親が一生懸命、わら草履を作っても、2日と履いたらあかんなる。草履のかかとあたりが破れて、足が擦り切れて、痛い思いをして家に帰ったんさ」


生活のために家族で耕していた畑や田んぼは、山に生息する野生動物に荒らされ苦労したそうです。農作物をまもるために、狩猟免許を持ったのは19歳の時。
明夫さん「狩猟免許は20歳からしかとれんけど、畑を守らなならん、しゃあないからって19歳でもらった。わざと殺生したない気持ちはあってんけど、シカもイノシシも多てしゃあない。昼も荒らしに来よって、畑も田んぼも全然ものが取れんかった。今みたいに、害獣対策の電気柵やらロケット花火やらなかったでな。せやから、夜中に2、3回起きて、底に穴をあけた一斗缶を鳴らして追いやった」
生活を支えた原木シイタケ
田畑で農作業をする一方、原木シイタケの栽培で生計を立て生活を支えました。
敏子さん「昔からこの地域は『伊勢どんこ』ってシイタケの産地やったんですよ。中国や台湾へ輸出もしとったみたいで、ここらの地域は炭焼きも材木もやっとったけど、地場産業としてシイタケが一番よかったみたいです。短期間で人工的な作り方をする菌床栽培やハウス栽培と比べて、自然の中で日にちをかけて育てたシイタケは味も風味も違いますんやって。ずいぶん好評を受けて、生産量が多かったころは大阪、関東、沖縄まで発送させてもろとったんです」
明夫さん「収穫は朝早くから山に行って、半日かかって80~100kgくらいを2人でもいできたんさ」


評判だった我流の獅子舞
明夫さんは忙しく働きながらも、「地域のお年寄りを喜ばせたい」との思いで、38年前、近所の人と一緒に敬老慰安のカラオケ発表会を開催。そこで発表したことをきっかけに獅子舞をする「栗谷神楽保存会」が始まりました。
敏子さん「カラオケとか芝居をやる中で獅子舞がうけたから、見てたお父さん(明夫さん)もやりたいと言い出して発展しました」


獅子舞の衣装など必要なものは手作りし、盛り上げるための囃子も我流で練習をしました。
明夫さん「趣味で獅子舞をやっとる人が知り合いにおって、その人と6人くらいで獅子を回してみたり、太鼓を叩いてみたりしたけど、笛を吹ける人がおらなんだ」
敏子さん「それで、お茶出しの手伝いしてた私も笛の稽古をして練習の協力ってしてたんですけど、結局、本番まで参加してました」
明夫さん「最後は、女笛師でな」


明夫さん「好きでやってるうちに、伊勢行ったり、マーム(現・イオンタウン松阪船江)の初売りに招いてもらってな」
敏子さん「お正月はゆっくりしたかったんですけどね。年末に荻原神社でご祈祷を受けてから、初売りで獅子舞をしていました」

「人のため」を続けて
苦労の中でも「人のため」という思いを持ち続け、獅子舞をきっかけに地域の祭りや都市交流を企画、多くの人と関わってきました。
明夫さん「人とよく接して『この人のため』って決めたら、一生懸命、影日向になって尽くす。そうしたら私のことよくしてくれる人がようけおるな」
敏子さん「この人はいろいろやりたいことがあって、地域でいろんなことさせてもらったから、この年齢でもこうして穏やかに生活させてもらえてるんやなって思います。私も寄り添って協力させてもらったけど、応援できて幸せでしたね」

ライフ・テクノサービス広報担当。LTSブログも更新しています。推しがジャンルごとにいます(担当色が緑か青に偏りがち)。



