私の小学生時代の下校時の記憶です。

今から50年ほど前で、第一次オイルショックの混乱が落ち着いたころです。

といっても私がオイルショックの混乱を記憶しているわけでもないのですが。

私の小学校は山間にあり、全校生徒120人、1年~6年までほぼ全員?顔見知りの典型的な田舎の学校です。私は、道のり約2キロ、標高差100mを歩きました。帰りは上り坂で子どもの足で毎日約1時間をかけて家に帰っていました。

そんな下校時に、時々見かけたおばあちゃんのことを、今でも思い出します。

学校から帰る約1時間の道のりは大変でしたが、一方で遊びのスタートでもあり、たくさんの道草をして帰りました。

学校から約300m進むと最初の家が見えてきます。(家と家の間は、たんぼ、畑、川、山など自然満載です)その最初に見える家の東側の日当たりの良い部屋が、その「おばあちゃん」の部屋です。

時々、窓からおばあちゃんが顔を出して子供たちを見つめています。だいたい天気の良い日です。集団下校の決まりではなかったですが、仲の良い友達と通り過ぎると、嬉しそうな顔をして見つめています。

ある時、その家を通り過ぎようとしたら、手招きで「おいでおいで」と呼ぶのです。
昔は悪いことをしていると、よそのおじいちゃん、おばあちゃんでも大声で叱られたものですが、そのおばあちゃんはいつもにこやかな表情だったので、呼ばれるまま自然とおばあちゃんのいる窓へ友達と向かいました。

「あんたら、毎日大変やな。どこの子やな?」

友人「僕は、仲之郷(地区)」私「僕は、平尾」

「あんた平尾かな。そら坂えらいわ。帰りこれなめてきな」

と氷砂糖を2、3粒くれるのです。

当時、私の家では子どもが好むお菓子はなく、その珍しさと甘さに「こんな美味しい飴があるんや」ととても嬉しく思いました。

それからその家を通るたびに「おばあちゃん、いないかな?飴欲しいな〜」と思いながら帰りました。

おばあちゃんが居るときは、つかつか窓のところまで寄っていきますが、子どもながらに「毎回行くのも図々しいかな」と思い、通り過ぎることもありました。

そんなとき、私たちはおばあちゃんに少し離れた道路から「おばあちゃん、バーイバーイ」と手を振って帰ります。そうするとおばあちゃんも手を振ってくれます。いつしか、そのおばあちゃんに飴をもらうより「バーイバーイ」と言う方が何だか幸せな気持ちになり、窓から顔を出しているときは、いつも「バーイバーイ」をして手を振り返してもらうようになりました。

僕たちの小学校では、そのおばあちゃんを「バイバイばあちゃん」と呼ぶようになりました。

当時は、まだ老人ホームなどは一般的でなく、それぞれの家でお年寄りのお世話をするのが普通でした。いつも窓越しでしか見かけたことがなかったのは、足が不自由だったのかもしれません。自分の足で外に出られないので、窓から外の世界を見ていたのでしょうか。

今でもその家を通り過ぎる時に、「バイバイばあちゃん」のことを思い出します。そしてその時の風景や帰り道の出来事がよみがえり、心がほっこりとします。あんな笑顔の「おじいちゃん」になれるといいな、私もシニアと呼ばれる年齢が近づいてきたので、毎日ニコニコと過ごしたいですね。

寄稿者:のりへい

見晴らしの良い津市内在住。
7年前に飼い始めたトイプードルに毎日癒される初老昭和男。