実家は駅前で親しまれる自転車預かり所

実家は昔から自転車預かり所をしています。店の前の道路は、今こんなふうにきれいになってるけど、60年くらい前はもっと狭くて砂利道でね。よく、ここで近所の友達と遊んでた。

現在の店舗前風景(写真上)と、同じ場所の約60年前の様子(写真下)。

今の斎宮駅前は通勤者用の駐車場が多くなったけど、昔はうち以外にも自転車預かりをやってて、通勤・通学用のバイクや自転車とか今の倍以上のお客さんがいてたね。多くの学生さんが町内の各地から集まって、斎宮駅から伊勢・松阪方面の電車に乗って賑わっていた。

あと三交(さんこう)バスも、松阪駅から下御糸(しもみいと)、上御糸(かみみいと)、明和町役場を経由して斎宮駅前までの路線が走ってたよ。
「三重交通バス」の略

冨山さんが営む現在の自転車預かり所の様子。
斎宮駅外観(写真上)および駅前の風景(写真下)。

母親が始めたお好み焼き屋

自転車預かりをしている隣で、何でかは分からないけど母親が一念発起してお好み焼き屋を始めまして。うちの母が店をやっていたのは、昭和48年から4~5年じゃないかな。

あと、当時はお好み焼きだけじゃなくて、袋入りの即席ラーメンを店で作って出してたりもしてました。

それを始めたきっかけは、部活帰りでお腹を空かせた高校生が来た時に、その子がラーメンの袋を手に取って「おばちゃん、このラーメン作って!」って言ってきたっていうのが最初だったそうで。

だから、うちの母はラーメン丼を準備して普通に即席ラーメン作るだけ。袋のサッポロ一番にネギとナルト1枚つけて、それで1杯100円。その学生は満足して帰っていった。

「冨さん」として再始動するまで

ちょうど、私が町内会の役をしていた一昨年に、「斎宮の賑わいを取り戻そう」という観光商社のプロジェクトがあって。昔ここがお店をやっていたことと、今は空き家になっていることを知っている人から「またお店をやりませんか?」という話があって、この店の再オープンが決まりました。

だから、自分が自治会の役を引き受けてなかったら、この店はなかったと思う。それってやっぱり、ひとつの運命って言ったら運命かもわからんし、でも、やる・やらんを決断するのはこっちやからな。「やる」って言ったのは自分やし、これは「運の尽き」じゃなくて「運の始まり」やって私は思ってる。

この店をオープンするにあたっては、家族の理解と協力があったことは、言うまでもないことやけど。

「冨さん」としてもう一度店をオープンするにあたって、できるだけ当時の店から使えるものは使いたかった。

この鉄板はちょうど50年前のもの。鉄板だけじゃなくて、鉄板の上にある木の格子やカウンター席の足元の鉄骨も当時の店からそのままやし、この昭和っぽい柄のガラスも一部残して、1枚は東側の入口扉にはめ込んで使ってる。

当時の店から什器を流用している部分を説明してくれる冨山さん。
当時の店内での冨山さんの父親と妹さん(写真上)。2人の背景にあった昭和ガラスは現在、東側の入口扉に再利用されている(写真下)。

再オープンしてから、よくこのカウンター席に座って喋ってくれるおじさんが「オレはここで自転車預けてたでね」「昔、ラーメンを作ってもらったんさ」とか言ってきてくれることもあったな。

「おばちゃん、言ったらすぐ作ってくれたわ」って言って、そういう話をしてくれるのがさ、やっぱり嬉しいよね。覚えてくれてんのやって。

奥さんのアイデアで始まった駄菓子屋

店の端で駄菓子も売ってるけど、一去年は近くの小学4年生の間で「駄菓子屋が駅前にできた」ということでうちが大ブレイクして。授業の中で自分たちの町について話す時に、「駄菓子屋の冨さん」のことを発表した子がいたとかいう話も聞いたし。

そもそも、駄菓子を店の片隅に置いて子どもたちに買いに来てもらいたいと発案したのは、うちの奥さん。昔から子ども好きで、地域の子どもたちと関わりたいという思いがあったんで。

店内の駄菓子の値段は、小学生が暗算で計算しやすいように下1ケタが0か5にしてあるんです。買い物カゴにお菓子を入れながら計算して、持っているお金に合わせるように。

ここには当たりくじのついてる駄菓子もあるんやけども、結構当たるんですよ。当初爆買いしていく子がいたもんで、その対策で「1日1人6個まで」ってしたりしてね。

去年の3月ぐらいから、100円の当たりが出たら当たり券に日付と名前を書いてもらって、裏口の横に貼り出した。これがまた小学生にウケて、「私、◯回当たって貼ってあるよ」「オレは2回続けて当たったよ」とか、グループで話が弾んでいた。そういうのが子どもらしくて良いよね。

変化していくお店

本当にちょっとずつやね、ここをやりだして今の形になっていったのが。最初からこういう風にしようと思ってやってたのではないし。

この鉄板でも、もともとココが切ってなかったんですよ。「鉄板にカス落としを作らないかんなぁ」と私が言うと、息子が溶接屋さんを探して鉄板を切ってもらってきたんです。

塩ミンチ焼きそばとかメニューが増えたり変わったりするのも、息子がオリジナルメニューを考えて、知り合いが来た時に「こんなの今度やろうと思うんですが」って試しに提供したのが最初で。「いけるじゃないですか」って言ってくれて、「じゃあ、商品化しようか」とか、結構そういうのがあって。私は単なるお好み焼きだけで良かったんだけど、いろんなメニューが増えて、それをお客さんは楽しみにしてくれてる。今も進化している途中かな。

去年の夏からは、これも息子の発案だけど、毎週味が変わる糸ピンス(韓国風のかき氷)とかをやったおかげで自分たちはすごく大変だったけど、お客さんには喜ばれたんじゃないかなと思うよ。

次のシーズンは冬だから、今度はおでんかな。昨年は日本各地の味のおでんと日本酒を提供したけど、今年もお客さんに楽しんでもらえるものを出していきたいので、みんなで頑張りたいね。

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