「間の宿」として栄えた町

まずですね、東海道五十三次の43番目の宿場が四日市で、次が石薬師です。日永(ひなが)の追分はその間ですので、「間の宿(あいのしゅく)」と呼ばれています。
そこの日永の二の鳥居、その前で生まれ育ちました。追分(おいわけ)という町名自体は全国の道に分かれ道があるので、たくさんあるんですね。ここの追分もそういった意味で町名が付けられました。
※伊勢神宮に参拝できない人たちのために建てられた鳥居。桑名に建てられた一の鳥居に次いで江戸に近いことから二の鳥居と呼ばれている。

国道の立ち退きの関係で、今はもう古いのはなくなってますけど、日永にはただ一軒、鳥居の西側に升屋さんって薬局がありました。その近くに京口屋さんっていう旅籠屋さんがあるんです。本陣で泊まると料金も高いし、そういうところは大臣とか大名とか、偉い人が泊まるんですね。その分、旅籠屋は多少安いんです。

でも、物心ついたころにはもう京口屋はやっていなくて。私の家の隣に丸屋さんっていう旅籠屋もあったんですが、もう旅籠ではこの先やっていけんなって思って、早々とお茶屋さんをやられてました。

あとは、一番大きい浅草屋さんっていう旅籠もありました。特に浅草屋さんとこの息子さんは子どものとき私の先輩でね、よく誘っていただいてたもんで、間取りまで知っとるくらいに遊んでた。浅草屋さんが私らの遊び場でね。学校帰ってくると、うちにカバンを放り出して遊びますね。そんな調子で。

旅籠屋のほかには両替商もあって。今でいうと銀行みたいな感じです。庶民はかさばらないから小判を持つけど、全部細かいお金にしないと使えないわけですよ。これがバラね。宿賃払ったり、おまんじゅう買ったりできないでしょ。その店先にあるのが、寛永通宝って書いてある木の看板です。

寛永通宝は、裏を見ると上に「文」って書いてある。これは1624年頃のもの。15年くらいは変わらなかったんです。資料館(東海道日永郷土資料館※休館中)に置いていたものですが、来ていただいた方に「見たい」と言われたときにすぐ紹介できるように、その看板と年代違いの貨幣2枚は家にあります。

町に起こった大きな変化

あとは、1929年・・・昭和4年ですか。稲垣さんっていう瓦屋さんなんですけどね。その瓦屋さんが鳥居から2000メートルくらいのところに別荘を持っていたんです。そこで、水がほしいと井戸を掘った。すると大変良い水が出たと。鈴鹿山系の伏流水。水には軟水・硬水があるんですけど、軟水で本当に良い水だった。その水を竹で日永の鳥居まで通したそうです。美味しい水で、土日は水を汲みに来る人で本当にいっぱいになります。それは今から90何年前ですが、今も鳥居の端から水が出ております。私もこの水が好きで、ひとりで勝手に「長命水」って名前を付けてます。長生きの水と、「長」にかけて「超良い水」だって意味も込めてね。

それから、昭和15年までは伊勢街道が鳥居の下を通ってました。東海道の渡り道ですからね。でも、鳥居の幅が4、5メートルぐらいで狭くて。だから工事したんです。家を引き上げて、土台から45センチ上げてね。鳥居の近くに建っていた家は軒並み、家をみんなずらして土地を転用したってことですね。

その当時でよく覚えているのは、工事で鳥居の下に今の軽トラくらい大きさの木炭車が来た時のこと。「車が来た! 車が来た!」ってね。珍しいから、みんなで大騒ぎしました。

稲垣さんの別荘から引かれてきた湧き水。今も鳥居の近くで汲むことができる。

学び、たどり、伝える町の歴史

普段、いらっしゃった方にお話ししている内容は自分で勉強したこともありますけど、自然と習得したものもあります。小さいころから曾祖母や周りの年寄りから教わってきたことで、面白いって思うから。先祖のことを皆さんに伝えられるといいなって気持ちになってて。

日永郷土史研究会に入る前から四日市案内人協会のメンバーをやってて、日永の歴史を案内できるようになろうという気持ちがずっとあったから、資料を取って調べて、自分の記憶をたどってこれだったなと思って、勉強してるんですよね。

やっぱり、話していると面白いですからね。せっかく日永に来てもらった方にも聞いてもらえるといいなと思います。話すと喜んでもらえますよ、本や地図には書いてないって。

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