「本当の田舎」だった大里

私は津の大里に生まれて育ちました。大里野田町っていうんですけどね、そこは60軒くらいの集落のところで、これといったものは何にもない。

田んぼと畑、池があって山がある本当の田舎で。白塚の方は海があったで良ぇけど、ここやったら池や川でしか泳ぐことができやん。やから、そこいら(そのあたり)で泳いどった。ウナギやフナやコイやらナマズやら、魚もようけおるくらいきれいやったわ。

大里の何にもなかったところに住んどると、小学校の頃は町に出てくるのが楽しみやった。バスも来てなかったもんで、一身田まで自転車で出てからバスに乗ってね。

満席・立ち席の三重交通バスに15円で乗って、津駅に出てくのが1つの大きな都会に出てくみたいな。大門・立町・津の三重会館の周辺に行くというだけで、普段着からよそいきに服装も変えやなあかんぐらいの出来事やった。小さい子どもらやでドロドロになって遊んどるからさ。

現在の三重会館周辺

昔の村のかたち

僕らの小ちゃい頃には、結婚式も建前(棟上げ)も、葬式をするのにしても、みんなが助け合ってやってた。

家を建てる時には村総出で、あらかたの骨組みができたら上から餅まきをしたり、それから「お嫁さんもらうよ」って聞いたら、そこの家見に行くとお菓子の袋をくれたり。葬式も、みんなで手を合わせて、お手伝いしてみんなで送って……というように、すべてを村の集団が中心になってやっとったですね。

普段の近所付き合いといえば、そういうのを中心として、「亡くなったんやな」「寂しくなったなぁ」というのや「お嫁さんが来てよかったな」というのや、「新しい家やな」というのや、そういうのでみんなが見に行ったりという交流があったわな。

今では考えられないけど、縦・横の強い繋がりの中で、協力して助け合いながらいろんな物事が進められていった。

当たり前の感謝を当たり前に

実家が大里の小さな寺で、そこの後は長男が継いだから、私は約50年前にこっち(高茶屋)に出てきた。「延命寺」に跡取りがおらんだということで、私がここの住職となったわけなんです。

高茶屋の風景
藤田さんが住職を務める「延命寺」
「延命寺」周辺の風景

やっぱり、こういう仕事をしている以上は、せめて人間としての感謝の気持ちだけは持ってさ、今を生きさせてもらってることを喜べる人がおってほしいな、と思います。

手を合わせて「ありがとう」
「すみませんでした」
「いただきます」
「ごちそうさまでした」

そういう感謝の気持ちだけでも持てる大人がおってほしいなぁ。もうこの頃、本当にえぇ大人でも「いただきます」ってせんでしょう?

「いただきます」で花を咲かせる

「いただきます」ってみんながせんもんで、この頃、それを布教するために「いただきます」って言ってすぐ食べるんじゃなくて、「いただきます」のままちょっと5つぐらい数えてる。食べ終わったら「ごちそうさまでした」ってしながら5つぐらい数えて、それから席を立って一礼してからお会計して出てくるんや。

この間、うどん屋さんで相席になって、前に座った人がいたんです。私が長いこと「いただきます」ってしてたらさ、自分の食べるもんがやってきたらその人も「いただきます」ってしてましたわ。それを見て「あ、ここにも1つの蓮の花が咲いたなぁ」「ありがたいことやなぁ」って。

蓮の花って、五濁悪世(ごじょくあくせ)の……ってこれはもう難しいな。簡単に申しますと、蓮の花って泥の中から咲くんや。蓮池は、下が泥やろ。ドロドロの汚い五濁悪世の中でも、あのきれいな蓮の花がそーっと伸びてパーッと咲く。だから世の中も見捨てたもんではないんや。みんなが、世の中にその花を咲かすようにさ。

人が「いただきます」の動作をしただけで「蓮の花が咲いたな」と思って満足して、良い気持ちになった。おいしいうどんが、さらにおいしかった。680円のうどんやったけど、向かいの人が手合わしてくれて、3000円ぐらいの価値があったなと思った。自分で満足して自分で思とって、世話ないけど(笑)

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