お茶農家だったいなべの実家

18歳までいなべで生まれ育ちました。いなべでも、私が住んでいたところは鈴鹿山麓のふもとの村でね。村全体が竜ヶ岳っていうんですけど、鈴鹿山麓に向かってなだらかに上がっていくところでした。

茶畑が多いですね。お茶がたくさん取れます。天候として、しぐれたり、霧が多いとお茶にいいらしくてね。土壌は黒っぽいですよ。
私の家もお茶屋をやってたんですけどね、お茶師が玉露を作るんです。手でお茶っ葉を1枚1枚ね、針みたいにするんですよ。糸をよるような感じですよね。日本紙(手漉き紙)を貼った枠にね、下にコンロを置いて加熱する。これには技術がいるらしいんですが、うちにはその技術を持っている人がいなくて。静岡から呼び寄せて、何日か来てもらうんです。
昭和16、17年頃は、人が戦争にとられてお茶師が来れなくなりましたね。私が5〜6歳の頃ですね。
※茶師・・・収穫した茶葉に蒸しや揉みなどをする人

お茶摘みを始める前に、お茶っ葉の新芽に紫外線を当てないように「覆い」という、すのこみたいなものをかけるんですよ。これをかぶせ茶って言うんですけど、私の家では「覆い茶」って言ったんですね。
それから覆いが終わったら、近所から知り合いの女性に来てもらって、お茶を摘んでもらう。その人たちは「お茶摘みさん」って言うんですけど、毎日、お茶摘みが終わると何匁(もんめ、1匁=3.75g)摘んだか測るんです。それでお給料を払ってね。

お茶摘みさんにおやつを配るのは、私の役目。おやつは、細かく切った餅のあられで、大きな缶に入れてました。お椀で缶の中からあられをいっぱいいっぱいすくって「おおきにな」って言って、お茶摘みさんが必ずしてる前掛けの中に入れてくんです。それをみんな、結構食べたんです(笑) そうやって、手伝いの人が集まってきてしゃべってって・・・あの光景はよかったですね。

お寺で遊ぶ、手作りの野球

そうそう。それから小学生の高学年になってから野球を始めたんですけど、近くに野球をするような場所がないわけですよ。公園なんてないですからね、当時はお寺の境内でやる。こちらの灯篭が1塁でこちらの灯篭が3塁で、三角ベースです。あとは自分たちで作った、布を丸めて糸でくるくる巻いて作ったようなボールで野球をやりました。

物がない時代だからね。自分たちで道具もみんな作るわけだけど、それも楽しいしね。子どもはみんな工夫して、そういうボールも作れるし、ミシンも縫えてグラブも作れる。ナタやノコを使ってバットも作れる。自然に道具が使えるわけですよ。今の子はもう怪我したらいけないから使っちゃいけないとなってますね。我々の世代は、怪我をして育ってます。学んでるわけですね。怪我してない子どもなんていませんから。

そういうことでお寺は毎日行ってた。お寺は田舎にね、たくさんありまして。そこで、それぞれ盆踊りをやったり、いろんな行事が伝わっている。由緒のあるお寺もあるので、それを学んでいくとね、面白いですよ。

いなべとのつながりを感じた日永の暮らし

就職をして関東へ行って、最後は「地元の三重県に」と転勤したのをきっかけに四日市に来ました。日永は歴史的な町ですよね。せっかくなら、その町の歴史を知っておこうと日永郷土史研究会へ入ったんです。

日永といなべには、繋がりみたいなものを感じますね。例えば、どんど焼きで餅を焼く様子とか。神社で正月飾りを燃やして、お餅を焼くんです。それを食べると風邪ひかないとかね。お餅を焼くとき、竹をある程度の太さまで削いで細く2本だけ残して、その間にお餅を挟んだり。あと、熱いですから竹に綱をつけるんです。餅を釣りみたいにして。やけどしないように、顔を真っ赤にしてね。

そういう、いなべの山の奥の方の神社でもやってたことを、こちらでもやってるわけです。だから懐かしいですよね。いなべのどんど焼きは何十年も見てないですけど、そういうところで繋がりを感じますね。

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