伊勢型紙の起こりっていうのは、まだはっきりしてないです。寺家にある子安観音っていうとこは「不断桜」っていう桜があって、その枯れ葉の虫喰いの模様をヒントに型紙ができたという逸話もありますけど、それも定かではないんですね。

鈴鹿市寺家にある「子安観音寺」

型紙とともに栄えた寺家

特に江戸時代、着物産業はどんどん発展してきて、着物を作る型紙を産業にしようということで、紀州藩が白子寺家を飛び地として治めた。江戸時代はみんな着物着とったわけやから、ここは型紙ですごい潤っとった。それを全国に、紀州藩の鑑札を持って売り歩いたから。いわゆる特別扱いやね。だからここの商人は、武士でないのに刀持って、そういう特権を持っとったんです。やっぱり、紀州藩やから。(徳川)御三家でしょ?

そういう歴史があって、ここに型紙の産業が育ったわけですよね。ここでみんな型紙を作っとった。やっぱり職人なんかは家族で仕事を、特に奥さんが手伝ったりとかしてますわね。そんな人を含めたら、1000人以上はみえたんじゃないかなと思います。

子どもの頃、1番目立ったんは紙を作る紙屋さん。その紙屋さんが、白子に最大十何軒……20軒ぐらいあったんかなぁ? 僕らの時でも、まだこのへんには十何軒あったんと思うんですわ。今はマンションなんかになってますけど、紙屋さんが寺家の中だけでも何軒かありましたね。

1番感じたのは渋のにおい。渋を使いますから。渋のにおいはちょっと特殊で、白子の駅とか鼓ヶ浦の駅で降りるとそのにおいがしてくるっていうことをよく聞きましたし、確かに近くへ行くとそのにおいが充満してました。

鼓ヶ浦駅

職人として大切にしているもの

職人になったのは家業というか、職人の家に生まれたのがきっかけといえばきっかけ。高校卒業してすぐに、家の仕事っていうことで。

親父について、あとは兄弟子が1人おりました。従兄弟でしたけどね。ところが2年も経たんうちに、親父が脳溢血で亡くなってまったんで、そっからが大変でしたね。兄弟子に教えてもらいながら、家族に支えられながら、やってきましたね、最初は。

入った時は忙しかったもんで、夜なべもしましたね。兄弟子が一旦家に帰って、また食事してから、9時くらいまで。だから1日12時間以上、やってきたかなぁ。今はまぁ、1日8時間くらいはやりますね。

最初は、まず1日あぐらかいて、同じかたちで座っておるんが大変ですわ。でもやっぱり、仕事が忙しいとやらなあかんからさ(笑)。「座っとる」と言っても、集中しとらないかんけどな。ただ座っとるだけとちゃうで?

失敗したらあかんからとにかく刃先を見て、道具の調子が良ければ、だいたい一定のリズムで刻んでいく。やっぱり良いものを作っていくには、そういうリズムっていうのが大事な気もするし。自然とついたリズムですね。

かたちがないものを未来に繋ぐ

型紙の使われ方は時代によってさまざま変わってきましたけど、もともとは着物を染める型紙なんです。昭和に入って、特に戦後、ガラッと変わっていって……それでも型紙は、いろんなものを染めてました。ネクタイなんかも染めたし、それから花瓶とかお皿も型紙で絵付けした。

型紙自体は製品じゃないんですよ、本来は。あくまで染色道具、だから「無形文化財」で国から指定されてるんですよ。かたちがないっていうことです。いろんなかたちに作っていく元になっとるのが、この伊勢型紙。

型紙(写真上)と、型紙を使用して染められた布地(写真下)
伊勢型紙を使用して作られたさまざまな製品たち

今、産業としての生業はゼロになってしまったのが実情で。みなさんが着物を着る文化が戻るかといったらまず戻らない。となれば、今はもう文化財的な要素が大事になってくる。歴史的な技法を見せたりとか、それを活かしてなんかできないかというのを今模索しながらやってきてます。

700年も経っとるものが、衰退しようとしてる。残るにしても、「どう残すか」ですよ。文化的に残すしかないでしょう。でも、唯一無二の伊勢型紙やから。鈴鹿市のひとつの財産なんですよ。みんな見たら「すごいね」って言われるわけですから。

若い人にどう伝えていくか、どういうふうに未来に開いていけるかっていうのは、僕らの時代でなんかできればなぁ。

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