東京でのご主人との出会い

生まれは目黒の方、東京の。主人が日本医大に来てて、私は目黒で大きくなったんです。兄のお嫁さんと、それから主人のおばさんですかねぇ……忘れちゃった(笑) 親戚がお隣同士だったの。それで自然に、別にどういうこともなく。偶然一緒になったり。

戦後ですからね、ロマンチックなことはあまりないんですよ。ですからそういう考え方(恋愛)とかは生まれてないですね、なかなか。でも年に1回か2回はお会いして。だもんで、2~3年くらい経ってから、義理の姉とそのお友達のおばちゃんが「結婚したらどう?」って組み立ててくれたん。で、たんまに上野の美術館へ行ったり、そんなんしてました。

東京都美術館

東京から大阪、そして伊賀・名張へ

主人の先輩が(大阪の)堺におりまして、その先輩に引っ張られて、病院を手伝いに堺に行きました。そこで主人と一緒になったけど、みなさんにも患者さんにも気をつかって、ちょっと元気がない時期があってね。それで、しばらく1ヶ月ほど療養してたんです。「療養」って、気ぃつかったんでしょうね。性格も静かな人だから。

親しい先生に伺ったら「少しの間、温泉でも行ったらどう?」って、そんなん言われましたよ。それで、伊賀上野って田舎に行こうとなって。「そこ行ってみるかなぁ、しばらく」言うて。

ほんで、なんてことなく伊賀上野へ来た。で、「あんな堺の真ん中で(開業)しないで、このへんでぼちぼち、自分の体調に合わせた仕事をやればいいやんか」っていうかたちです。そんなことで、桔梗が丘のはずれのいちばん安いところで土地買って、(開業準備を)始めました。それが昭和40年くらい。

なんとなくで始まった川柳づくり

準備するあいだ、上久保病院(上久保整形外科クリニック)を1年か2年くらいお手伝いして、昭和45年に開業。で、私は「これはお友達たくさん作らなければいけない。親戚も誰もないから」って思いました。

主人は、家業をする前からドクターたちと集まって俳句をやって、私もたまには作ったりしてました。「川柳をぜひやりましょう」って誘われて、最初は革新(川柳)の方へ入った。そのお仲間が、番傘(川柳)本社を立てた人、岸本水府っていう伊勢の人ですねん。

それから、私は桔梗が丘で、大阪にある番傘(川柳)本社という全国的な川柳をやっている会に。川柳は昭和50年ごろ、公民館活動の時に忙しくやって、80になるまで忙しかった。

書棚で見つけた喜びと、今も続く句作

自分のは文庫本になったり、大きい句集は2回。1冊だけここに、『そよ風』というタイトルで。これが、岸本吟一さんの字。(岸本)水府のご長男のね。濃い紫、濃い紺に近い紫で、名張(市立)図書館のいちばん上の棚にあって……嬉しかったですねぇ。

(自分の句は)しつこくてしつこくて。ちょっとヘタな部分もあるし。(前作の)『しろつめ草』は上品で、真面目で、主人もとても褒めてくれました。でもこれは、あきません。不良のおばあちゃん(笑) あのね、つまらないことを書いてあるのはね、破って取っちゃった。

(川柳作りは)毎月毎月しないとダメなもんで。今も、ここ(入居している施設)で毎月句会をしてます。初めての人も多いから、ここでは分かりやすい句を作ってます。

木野さんが入居している施設での作品展示

だけど、結局こういうものは、省略。ちょっと誇張を使って、擬人法を入れて。本当はこういうのが好きなんです――

 風を追って 笑ってしまう 泣いてしまう

これが、川柳の意外性っていうか。そんなんですね。毎月毎月、こんな感じです。

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