車に夢中だった幼少期

生まれは三重県名賀郡蔵持村原出。僕が生まれた時の地名はね。うちの実家の前が伊勢街道で、368号線が通っとった。トラックもたまに通ったんで、後ろにパーッと飛び乗って遊んで。よお(よく)やりましたんや、よお𠮟られました。

車が小さいころから好きでしたに。とにかく「車に乗りたいな」「車の仕事したいな」って思ったりしてね。そんなことばっかり考えてました。

通学で使った旧近鉄伊賀線

就職までは名張。ここらはそんな自由に歩けるような道はなかったね。もう、山ばっかりで。国道ができてから開けたんですわ。それから、桑の木畑とか蚕を飼ってるところが、4、5軒でしたね。農業されてる方が多くて、本職で飼ってる人もなかったけどね。

僕はね、(伊賀)上野の師範学校に通ってたんだけど、ここ(入居している介護施設)の下に駅があったんですよ。伊賀線(伊賀鉄道伊賀線、旧・近鉄伊賀線)って鉄道が通ってたんですわ、上野から来ている伊賀神戸から西名張まで。今、廃線になって国道になってますね。使ってた駅は市の公民館になってると思います。

材木屋さんのトラック運転手からバスの運転手へ

学校上がって、名張の材木屋さんに仕事に行って。2年か3年、最初はそこのトラック運転手の助手して、その運転手がやめてから僕が運転させてもらった。「お前運転せえ!練習せえ!」って練習させてもらって、一人前にしてもらいました。よくしていただきました、いい親方でね。ものすごい怒りよったけどね(笑)

奥さんがね、弁当作って僕に持たせて「はよ、これ持って仕事に行き、トラック乗って行き」って、ありがたいです。毎日毎日仕事に行って、大事にしてもらいましたからね。その恩があるんですわ。

それから、大阪へ行って。20歳から60歳の定年まで、ほとんど大阪です。交通局へ就職して、市営バスの運転手をしていました。市バスはここらのバスと違って、普通の通勤でも毎日満員ですわ。僕のいたころは景気が良かったから、女の子の車掌さんも乗せてた。今のバスと比べたら、全然(イメージが)分かんないと思いますよ。

そういえば、1回(就職する前に)「市バスってどんなんかな」って見に行ったんです。あんまりよかったから「あ~! 乗りたいなぁ!」って(笑)。 いうたら制服にあこがれたんですわ。今でもまだ、その制服を持ってるんです。

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